2017年06月19日

武田邦彦氏も原発推進派だった (でも謝罪がないし科学者の責任は問われない)


武田邦彦氏も原発推進派だった

(でも謝罪がないし科学者の責任は問われない)

生活を奪う罪と責任

武田は,原発推進派として日本国の原発行政に「協力」してきた過去を精算せずに,国民の前では耳ざわりのいいことを言い,合間の要所では,巧妙に原発を養護(擁護・・・)する,たとえば,プルトニウムは恐くない,連休明けの東京は安全だ,表土を削れ! 等々,武田邦彦は,日本の原発推進派のトップ・インテリジェンス(謀略知識人)なのだ.


1) このぐらいなら安全という合意点ができれば原発を動かす、

2) その代わりそこで約束したことを守る、

武田氏は文系の知識が豊かだから驚く、理系と文系の両方を備わっているから現代の知識人としては強みになる、現代社会は科学無しではありえない社会だからである。
それで科学技術者は現代の聖職者であり科学者は批判できない社会である。
カトリック社会と同じく聖職者は批判できない、神の使者となるからだ

今回これだけの大事故でも科学者は批判されない、確かに御用学者として批判はされたがでは科学の研究は常にすすめられるものとしてあることには変わりないのである。
だからいつかは原子力でも核でも安全に操作されるものとして見られている
そして死んだ人を生き返らせるとかの実験も行われたとか科学者が万能になることを夢見ているのである。
それはまさに科学者が聖職者だからそうなっているのである。

武田氏のことは原発に対してどういうスタンスなのかわからない、ただ原発を指導した人であることは確かである。
でも原発事故に起こしたことに対して謝罪はないのである。
今回の原発事故でも戦争のときと同じように責任をとった人はいないのである。
東電の幹部は海外に逃れ優雅な生活をしているとか言われているからだ。
実際は腹を切るほどの責任があった、これだけの被害があったらそうなる

そして不思議なのはこれだけの被害なのになぜ地元の人は怒らないのか?

それは東北人はおとなしいからだとか言われる、また東電で働いていて世話になったという人が多いから怒らない、追求しないとなる
人間はともかく利益を受けると弱い、それで急所をにぎられる
マスメデアでもほとんど会社の宣伝費で成り立つとすると批判はできない
東電は巨大な国並の会社だったからよけいにそうである。800億円とかをマスメデアに宣伝費としてつぎこんでいたからである。
それで朝日新聞まで原発には反対していなかったのである。

でもこれだけの被害があったら地元では怒りになる、それが賠償金だけで贖われるものではない、生活の場を奪われたということが深刻だったのである。
それは金で贖えないものを失ったのである。
ただ地元の人たちもそういう自覚がない、だからこそ漁業権でも売り渡したし自分たちが生きる場が何か?その価値を自覚していなかったのである。

だから武田氏が矛盾しているのは日本の森林は木材を伐採するべきだ、地球温暖化とかで森を守るということは地元の生活を奪うものだと言って講演して割り箸をもらったというこれも何か変だと思った。
原発事故で環境が破壊されてその木材さえ汚染されたからだ。木材さえ売れなくなったのである。樹皮にセシウムが付着して3マイクロシーベルあったからである。
今では減ったがそれだけ森林は放射性物質で汚染されたのである。
それで浪江が森林火災になったとき放射性物質がまた拡散したのである。

地球温暖化などと言って森林を保護するためとかで日本の木材を利用しないことがかえって地元の生活を奪った、そのことはわかる
でも原発事故では水すら飲めないとなり農業している人だけではない、生活の場を奪われたのである。
そういうことに対して地元ではもっと怒ってもいいはずなのだがそれほどでもない

ただ怒りといっても賠償金だけを要求するとあいつらは原発前も補償金をもらっていたし利益を得ていた、事故後もまた多額の賠償金を獲得した価値だと言われる
だから実際は本当に反対に効果的なのは賠償金などいらない、俺たちは自分たちの生活の場を奪われたことに心底から怒っているのだ。
賠償金もらなわくても俺たちは俺たちで生活するとかなれば一番効果的なのである。
でもただ賠償金をだけを要求すると逆効果になる
結局は金なんだよ、金ほしいだけなんだよと見られてしまうのである。
補償金でも内部でももめて一体感が失われたこともある
だから人間の問題は何でも金で解決できない
金がかえって逆効果になる場合もあるからむずかしいのである。

原発を推進した科学者にも責任があったが追求されない

地方の人の生活の場である森林を地球温暖化を楯にして木材をとらせないの間違っているということ言い割り箸をもらったと喜んでいる
これも矛盾ではないか?
原発事故を起こした責任は科学者にもあったのだから地元には謝罪すべきだとなる
でも科学者で学者で謝罪した人はいないのである。

その後に年間一ミリシーベルトを守るべきだと厳しいことを言っている、それは科学的根拠があってもそれを地元で守ったらもう誰も住めないのである。
移住しろというのならわかる、チェルノブエリのように移住地を与えてくれて移住しろとなればわかる、でも地元に住んで一ミリシーベルトを守れということはできない
だから科学的根拠があっても社会的現実の問題として通らないこともある
だから科学的なことですべてが人間の社会の問題が解決されるとは限らないのである。
医療でも最後は治すというよりターミナルケアでは痛みをやわらげて治療より精神的なものを重視するとかになる
つまり科学的なものもすべて社会に適合できないし解決できないのである。

ともかく人間は矛盾した存在である。自分だって株でもうけようとしたりしているから何か資本主義社会を批判してもその中で生きるためにそうする
武田氏は地方の地元の生活を奪うことは重大な罪だとうことを言うけど原発事故で地元の生活を奪われたことに対してはどうなるのかとなる
そこに科学者でも良心の呵責のようなものがあってもいいように思う
でも科学者にはそういうことはない、アイシュタインでも広島に原発を落としたことで反省した、原発の危険性を知っていてもそれを言わない科学者にも責任があったのである。責任というとき地元の人にもあった、自分にもあったともなる
ただ科学者の責任も重かったともなる、でも謝罪も反省もそれほどないのである。
それは医療ミスともにている、医療ミスは膨大でもあっても隠蔽される
そうしないと医療の発達はないからである。実験として科学があり医療もそうなのである原発でも危険であっても実験としてやる、それが科学の発達になるとして容認されるのである。
現代は科学の社会だというとき科学者の責任も重くなっているが自覚されていないのである。

それにしてもあれだけの文系までの知識があることには驚くし参考になる、「心に青雲」でも賛成できないことがあっても首尾一貫したことがあるので参考になる
人間は何か首尾一貫することが大事なのである。
それは右でも左でもいい、首尾一貫するものがあるとき何でも筋が通ったものとなる
対立するものがあっても首尾一貫したものがあると共鳴する
侍の果たし合いでも強力な敵になるとこいつはできるなとか一目置くことになる
だからあいまいな人よりそうした強力な敵の方が学ぶ方が多いのである。


posted by 天華 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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