2017年06月10日

浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる (真野川にスズキが上ってきていた)


浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる


(真野川にスズキが上ってきていた)

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真野川の橋の上でしきりにススギがいる、光るのがスズキだという浪江の室原の人がいた鯉はいるけどススギが上ってきているとは思わなかった。

チヌやスズキは環境への適応性がかなり高い魚なので、海水域から汽水域、場合によってはほとんど淡水といったレベルのところでも生きていけます。
途中に堰などがなければ餌を求めて数Km上流まで上ることもあるようです。

スズキはこういう性質をもっているから確かにその人はスズキを見たのである。
釣りもしていたから直感的にわかったのかもしれない、なかなか常に見ていないとわからないからである。
この人は浪江の室原の人でありそこはかなり放射線量が高い、豚を飼っていたという、その豚を伊藤忠商事が買い上げていてこの辺でも売られていたという、豚としては高級なものだった

その人に親しみを覚えたのは室原というとき近くが小出谷なのである。そこが父の出身地なのである。ずいぶん近いなと地図を見て思った。境遇も両親か死んだとか母親は避難中に死んだとかにていたこともあった。
ただ勘違いしていたのは室原は確かに近いとしても大柿ダムから山をおりた平地にありそこから浪江の街まで近いとなる、そこで豚を飼っていたのである。
だから小出谷となるとやはり相当に奥であり離れている
その時そこの親戚がダムができるといいなとしきりに言っていたのである。
なぜなら金がもらえるからである。山の暮らしは貧乏であり山を出たいと思っていたからである。それは戦後まもないころである。
1989年頃完成した、30年くらい過ぎている、このダムの水は小高でも田んぼなどでも利用している

室原というところには行っていない、小出谷には平地がない、前は谷であり川が流れている、その川は大柿ダムに流れている
あそこがまず平地がないということは田畑もまともに作れないということである。
だから林業などで生活していたとなる。電気が通じたのも戦後二十年くらいかもしれない電気がその時まで通じていなかった?とすると明かりはなんなのだったとなる
ネパールの山の暮らしでもそこには電気が通じていないから夜は真っ暗になる
そうした昔の生活がネバールには残っているからそこから昔を偲ぶということができる
何かにた暮らしがそこにあったからだ。ただ一回しか行かないので良くわからない
外国はわかりにくいし良く観察できないのである。

バスは三春の方まで通っていたのである。バスが盛況な時代があったのだ
その頃森林鉄道もいたるところにありそのことを姉は語っていた
浪江のの高瀬川沿いを葛尾村の落合まで通じていた、それも距離が長いから凄いと思った森林鉄道というとき木材の供給地として山でも暮らせたとなる
それで山持ちで大倉の女性が俺は相馬の女学校(じょがっこう)に行っていたんだよ、親戚が鹿島にいてそこから通ったんだよと言っていた
当時の女学校というとき本当に相当な金持ちしか行けない所だったのである。
あとは自分の母親が尋常小学校のようにそんなものだった
当時の女学校というのは特別な金持ちが行くエリートだったのである。
山持ちが金持ちになっていた時代があったからそうなった
だから優秀だった姉が女学校に行きたかったというのはそのためである。
ただ大倉の女性は年をとっていてそういうエリートだったと面影はまるでない、田舎のばあさんになっていた。

小出谷の親戚はそれから浪江の街におりてきて暮らすようになった、息子は原発で働くようになった、家も建てた、それは一つのこの辺の歴史である。
何か原発とかかわっている人が実際に多いのである。浪江だとすぐ近くだから余計にそうなる、将来的にも浪江が廃炉作業の宿泊所としてコンパクトシティとして生き残るというときもそうである。
山の貧しい暮らしから脱出しようとして原発があった、それは確かに豊かな生活をもたらしたのである。自分の父親は双葉の新山の酒屋に丁稚奉公したのもそのためである。
山の貧しい暮らしは戦後街の方が豊かになったとき比較したときその差が大きくなったから山を出るという人が多くなったのだろう。
それが今になるといいものとしてだけ働かなかったのである。

いづれにしろ室原というとき帰るのはむずかしいのだろう。なんか拠点をもうけて集まり復興しようとしているらしい、それはまだ浪江の街に近い感じだからそうなっていた。
地図で見た限りはそう見えるのである。
その人はなにもすることがなく淋しい感じである。
ただ浪江はここから近くなっているから帰れるという気分になることは確かである。
時々土地がある人は見に行っているからである。

スズキが川通じて上ってくるというときこの辺は山でも海との関係がある
中通りとかなると海との関係を感じないだろう。会津でもそうである。
それでお浜下りとして飯館村の佐須村の山津見神社から祭りの時来るのを見ている
今は車で神輿をのせて来ていた、そして松川浦に山津見という地名があるから社があって祀られていたからであろう
もちろん綿津見神社というとき海の神でも山にもあるから海と山の関係はもともと日本では深かった、海彦山彦の国だからである。
だからスズキというのが川に上ってきたというときスズキは結構大きいからそういことは知らなかったのである。これはかなり川上まで上ってゆくという、何か餌になるものがあるためである。その時そこに翡翠が姿を現したがすぐに隠れた、なかなか動くものは写真にとりにくい、翡翠は別に時々みかけるのである。

ともかく浪江辺りになると親戚関係になっている人も多い、双葉とか大熊は相馬藩内でも遠い感じになる、浪江は野馬追いにも出るから相馬藩内である。
南相馬市だけでも2000人くらい復興住宅とか家を建てたとか移住しているようだ
だから今は浪江の人が目立つのである。
posted by 老鶯 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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