老鶯、夏の月(里に老いる)
老鶯や共に老いゆく里のあれ
老鶯や堤の広く里暮れぬ
田の増えて蛙も増え鳴く夏の月
今日の夜は夏の満月である。そして鹿島区では田んぼが増えた、だから蛙が増えて鳴く声も騒がしくひびく、田んぼが増えると蛙ももどってくるのである。
去年よりもまた増えているから農業も相当復興している、ただ山の方は田んぼにしているのはまだ少ない、田畑でももう跡継ぎがない所は荒地のままでありそれは別に利用するようになる、大きな畑にした所は会社経営にするとか言っていた。
小高ではそうするというとき個人の家ではやれなくなっているからだ
横峰の堤は広々としている、そこに夏になれば老鶯が鳴く、夏鶯と老鶯の受ける感じは相当に違う、老鶯というときどうしても老いたなるから老人をイメージするのである。
だからこの俳句もできた、高齢化社会というのはこれからさらに社会の問題になる
そもそも高齢者多いということはそれだけ社会全体に圧迫する、人口圧力が大きくなる
すると社会全体が高齢化社会になるのだ。若い人は何かかえって目立たないのである。
団塊の世代は若いときは今とは全然違う、暴力的になったとしてもその若いエネルギーが社会に噴出していたのである。それだけ若い人が多く日本は若い社会だったとなる
高齢化社会になるとこれは未だ経験しないものであり社会自体が高齢者に老人基準になるのである。それは停滞した活力のない社会ともなるがまた反面落ち着いた社会とか今までにない社会になる。
老いゆくというときどうしても共に老いるということで長く住んだ所に老人は住みたいのである。老人になるとなかなか新しい場所でも知己でも得にくいのである。
ただ別に老人になってもかえって今まで知らない人とも交わるのも増えている
老人ホームに入ったらそこでは今まで知らない人たちが一緒に暮らしたりしているからである。
この辺は小高とか浪江とかの老人と知り合うようになったのもそうである。
普通だったらあまり交わらないからである。元の相馬藩内で人が交わるようになったのである。近くの仮設に住んでいるから当然そうなる
老いるというときやはり里に老いるというのが自然である。
その里というとき街ではない、田んぼとか畑とか自然な生活のある所である。
そうなるとこの辺でも原町とかなると大きな街になるから里とはならない
鹿島、小高はまわりが田畑がら一万くらいの町だと回りが里になっているのである。
だから原町とか相馬市に暮らすのとはまた違った感覚になるのだ
前にも詩にしたが森の樹々がともに年輪重ねて老木となりやがて森に倒れ木となり還ってゆくという感じになる、ともにそこに年月を重ねた木なのである。
そこに木の連帯感が生れていたのである。
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