2017年04月27日

桜は散り今年の春も逝く (枝垂桜の咲く家(詩)


桜は散り今年の春も逝く


(枝垂桜の咲く家(詩)


枝垂桜の咲く家(詩)

桜ははや散りにき
幾度かの風に散りにき
この道を今日も行けば
残れる花のあわれかな
とある家の枝垂桜や
夕日のさして
庭に石の落ち着く
ここをよしとて
居を定める人のあり
河原に鶯ないて
我が行き来するかな


今年の桜は終わった、外に桜を見にゆくこともなく終わったからめずらしいとなる、何か出かけるのが億劫になった
新しく建った家の枝垂桜はいい、あの家の庭はいい庭である。垣根だから丸見えである。庭は別にその家だけでなく外の人も見るからいい庭だと外の人にとってもいいとなる
塀に囲まれているとそうした庭も見えない、垣根だと外から見えるからいいのである。
それは日本的であり日本が安全な社会だからである。
外国では分厚い塀で囲まれているからだ。無防備では住めないからである。
そもそも街自体壁で囲まれているのが外国の街だからである。

日本はやはり季節の移り変わりに感じるものがある。
桜が咲いたと思ったらもう散ったな春も終わりだなと感じる
その季節感の故に季語が発達して俳句が生れた
残る花という季語も生れた、こういうふうに微に入り細に入り季節の言葉があるのは日本だけなのである。

仮設はもう終わりである。でもまだ住んでいる人はいる、家建てて庭を作りそこに石を置いて枝垂桜まで咲くと落ち着くなとなる、それは外から見てもそうなのである。
仮設は外から見てもいいものではなかった、二三軒の風流なものとしてあればいいがあれだけ仮設があるということは津浪の被害地でも異様なのである。
その仮設暮らしでも六年過ぎてさらに住んでいるのも限界だとなる
でも仮設から出れないという人もいる、高齢化でもう新しい家を建てる気力がないと言っている人もいる、それで最初から長く住める家を建てた方が良かったとなる
それも法律でできなかったとか今になるといろいろ反省がでてきた
まず日本では家を建てることが金がかかりすぎるからそうもなったのである。

ともかく今年の春も終わりである。

故郷の外にいでずに花も見ずはや散りにけらしも春は逝くかな

まあ、これも一つの情緒である。故郷に桜は咲き散って終わったということである。
常に旅していた自分にとってはめずらしいことだともなる
ただ介護していたときが長いから10年前から遠くには行けなかったからめずらしいともならない、ただ桜の季節はやはり桜一色にそまるのが日本だとつくづく思った。


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/179572238
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック