2017年04月27日

「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす 京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす


京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


京都府教育委員会から福島県南相馬市に派遣され、1年間発掘調査を支援してきた府教委の古川匠さん(38)は、南相馬市での住居の変遷に着目した。東北では平安時代の貞観地震(869年)での津波の被害が知られるが、約2千年前の弥生時代中期にも大地震で巨大な津波で被災した。発掘調査によると、地震後、弥生時代の集落は津波を恐れてか、高台に多く作られていたことが分かる。

高知県須崎市のただす池の約 2000 年前の津波堆積物の中から土器片を発見したことである。須崎市は歴史的にも繰り返し大きな津波被害を受けてきた地域であるが,すでに約 2000 年前,弥生の人達がこの地で生活を営み,大きな地震と津波に遭遇
していた。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。10軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘った貯蔵穴、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的な集落のすがたです



この記事の詳細はわからない、ただ京都からも研究員が来ていた、ただ弥生時代になると2000年前となるとそれを今知るということは容易ではない
例えば海老にも弥生時代の住居跡が発見されたからあそこは相当に古い時代から人が住んでいた。弥生時代となると古墳時代より古いのである。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。
南相馬市の鹿島区では寺内から小池が一番これにマッチしているのである。
弥生時代から寺内、小池はそういう適地でありたからこそ古墳が多いとなる
ただ桜井古墳の一は相当に海に接していた、新田川にも接していた
そういう地の利がありあれだけ大きな古墳が作られた
なぜなら津浪がその古墳の手前まで来ていたからである。

ただ2000年前の中期の弥生時代に大地震で津浪で被災した

そのことが明確に立証できているのだろうか?

そしてその後高台に住居が多く作られたとあるがこれなども詳細がわからないからわかりにくい。ただ相馬市では貞観津浪の痕跡が発見されていた
海の砂がボーリング調査で海から離れた奥で発見されたからである。
貞観津浪というのは史書にも明確に残されているし科学的調査もされていてその被害もわかっている。
ただ慶長津浪となるともう一つ記録的には明確でないし科学調査もまだ不十分なのである小高と浪江では貞観津浪の痕跡が発見されている
つまり今回と同じような地域で巨大な津浪があったことは明確なのである。

だから弥生時代にさかのぼり津浪のことを知るのは容易ではない、海老も高台であったからあそこに津浪がくるとはみんな思っていなかったのである。
それで海老の崖の高台に避難して30人くらい死んだのである。
その原因が崖になって高台になっていたから海に接しても津浪が来ないとして前から避難先として指定されていたのてある。
それほど津浪については市でも知らないからそういう重大な過ちをしていた

ただその後ろが森になっていてその森に逃げたら助かったのである。
その森の木につかまり助かった人もいたし右田から必死でその高台目指して逃げて森に逃げて助かった人がいたのである。まさに九死に一生を得たとなる
海老は右田などからすれば高台だから安心していたのである。
高台だからこそ弥生時代から住居があり人が住んでいたとなる
その弥生時代でも巨大な津浪が来たら大きな被害があった
ただ小高で考察したように縄文時代に住んでいた地域には津浪は来ていない、そういう場所に住んでいたからである。
新地の貝塚でも高台にあり海から相当離れている、貝などは海にきてとったとしても住んでいた場所は高台なのである。それで手の長い巨人が住んで貝をとって食べていたという伝説が残っている

いづれにしろ津浪とかなると2000年単位くらいでみないとわからないものだったのであるその時間の感覚が人間にとってはとてもリアルに感じられないものとしたのである。
だから相馬地域では津浪は来ないという確信とまでなっていたのである。
自然の時間感覚はこのように長いのである。それに人間が合わせることは容易ではない
今回の巨大な津浪でクローズアップされたからこそ弥生時代の2000年前の津浪のことまで調べるようになった。

考古学でも津浪のことが今回の被害でテーマになった。ただ海老に弥生時代の住居跡があるとして次に鎌倉時代の住居跡もあるとしてその後に起きた津浪、慶長津浪がどう影響したかはわからない。慶長津浪のことは相馬地域でも700人溺死したとしか記録がなくわからないのである。だから謎になってしまっている
貞観津浪は記録でも考古学的科学的調査でも明確になっている、慶長津浪については不明確なのはなぜなのかともなる

郷土史などでも2000年単位でみないわからないとなる、ただそうなると2000年前に巨大津浪が来ていたとしてもそれで警戒する人はいないだろう。
貞観津浪は800年頃であり奈良時代であるから記録にも残った、弥生時代となると記録にも残らない時代である。そういう時代を知るとういことは容易ではない
地層を調べるとかなると化石時代までもさかのぼる、そういう時間感覚になると人間は弱いのである。第一300百万人が死んだ70年前の戦争さえ現実と思えなくなっていることでもわかる、そんな大惨事でも人間は忘れてしまうからだ。
その人たちは異国に死んでその骨は埋まっていても拾う人もない、北朝鮮では日本人が埋められた墓があったがそこは畑になっていて一部が辛うじて残っていたのである。
70年前のことさえこうして忘れられるというとき2000年前をリアルに感じることはできないのである。

人間は死ぬとたちまち忘れられる、そんな人が生きていたのかとまでなる、思い出す人もわずかでありやがては全く忘れられるのである。
そして自分のように墓に記された名前と死亡年月を見たりしてその人を知るとういだけになる、人間は常に目の前の現実と戦い生きているから過去は忘れやすいのである。
でもその現実もすぐに過去となってゆき忘れられるのが運命なのである。


南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)

posted by 老鶯 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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