2017年04月26日

寺内で古墳の発掘調査 なぜ桜井古墳のある原町に国造(くにのみやっこ)置かれなかったのか?


寺内で古墳の発掘調査


なぜ桜井古墳のある原町に国造(くにのみやっこ)置かれなかったのか?

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発掘現場
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真野の草原(かやはら)の万葉集の歌の謎


ここを読まないとわかりにくです



国造は、自らの統治権を認められる代わりに大和政権に対して、子弟・子女の出仕、地方物産物や馬、兵士などの貢上を行わねばなりませんでした。


国造とは、その地方の行政・軍事・裁判権などが与えられた地方官です。もともとはその地方を支配していた豪族ですから、その支配権をヤマト政権が国造という官を与えることで追認した面も大きかったようです。

国造は日本における地方官で、軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった物をいう

律令制の導入により国造は廃止され、国造は郡司に任命されます。そして郡の上に国が置かれ、中央から国司が派遣されました

5世紀には倭の五王が中国の南朝(宋)に朝貢して朝鮮南部の利権を主張し、百済・高句麗よりは下位だったが、倭王の国際的な地位を確立させた。一方では渡来人を流入させて国力をやしない、経済力・軍事力は飛躍的に上昇した。

武蔵国(東京・埼玉)では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)(群馬)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

「大和政権にとって、上毛野は軽視できない勢力でした。安閑元年の出来事かどうかはともかく、豪族同士の抗争を好機ととらえ、積極的に介入したことは間違いないでしょう」http://www.sankei.com/life/news/130219/lif1302190021-n1.html


仏教の受け入れに賛成したのは蘇我氏であり、反対したのは朝廷で神を祀る仕事をしていた中臣氏と蘇我氏に対立していた物部氏でしたが、やがて蘇我氏と物部氏の政治的対立に発展します。

いっぽうで国造の支配する地域には多くの独立性の強い中小首長が存在していたため、国造は絶対的な権力はもちえず、その基盤は脆弱であった。それゆえ、大和朝廷は地方支配の組織をより確かなものにする必要があった。

これらの出土遺物?や撥形をなす前方部の形状などから古墳時代前期の築造と推定される。年代的には4世紀?後半から5世紀?初頭が想定され、埋葬された人物は新田川流域を治めていた有力豪族?だったと考えられる。

前方後方墳をさかんに築造した北関東?地方とくに下野国|下野?(現在の栃木県?)および常陸国|常陸?(現在の茨城県?)との濃密な文化交流も考慮される。


寺内で南相馬市の文化財課で古墳の発掘をしていた、あそこになにかしらないがまた建物が建つ、もしかしたらまた大東建託のアパートかもしれない。今二棟建設中であるからだ。

発掘調査する人に聞いてみた、その人はあまりしゃべる人ではなかった。地元の人ではなく外部から来て就職した人である。
古墳は意外と発掘されるものなのだろう。最近で土をとっていた屋形から発掘されている古墳は鹿島区では多い、特に寺内から小池は多いから発掘されるかもしれない、
一番驚いたのは寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたことである。
この辺では非常に珍しい貴重なものとなった

古墳時代があり奈良とかでも関東でも大古墳が作られた、それから小古墳も日本列島全体に無数に作られたのだ。古墳時代という明確な一時代を築いたのである。
古墳があれば明らかにその時代を意識するのである

古墳がなぜこれほど作られたのか?それは葬送としての墓であり先祖崇拝が基本にあったからかもしれない、アモイなども先祖崇拝の像であり世界の宗教は先祖崇拝が最初にあるからだ。それが過度なものになるとき問題が起きた
古墳の厚葬は禁止された、古墳は小さくても場所をとる、古墳だらけになったら墓だらけになったら今生きている人の邪魔になってしまうのである。

国造(くにのみやっこ)というのはわかりにいけどこれは在地の有力者、豪族がいて中央から大和政権が認めた地方官だとある、つまりこれは大和政権下の支配が最初に及んでいた地域だとなる
でも大和政権というのはそれが日本全国を支配していたわけではないし第一強力な地域の豪族がいて統一されていなかった、さらにそこに複雑化したのは渡来人が韓国から入ってきてその人たちがヤマト王権の国造り深く参画したことなのである。
それはその人たちが外来の文化を技術でも仏教でももたらしたからである。

ヤマト王権といっても様々な勢力の混合体でありそれに対立する地域の豪族もありそれらが全部ヤマト王権に組み入れられいないのである。
吉備などはヤマト王権に代わるような巨大な勢力だったからである。
そこでヤマト王権と権力争いが各地で起きていたのである。

そしてその時さらに複雑なのが蝦夷であり蝦夷とは何かとなるとまたこれも不明になっている、蝦夷とは縄文人の末裔なのか、何かわからない、ただ地元の土着的勢力であり
最初に対立した集団である。でもそれがヤマト王権と対立したというのではなく、東北では物部氏と毛野氏が大きな勢力でありそれらがヤマト王権と同格とかなっていて支配下には入っていないということがあった。


武蔵国(東京・埼玉)では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)(群馬)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

この争いでもわかるように毛野はヤマト王権と対立するような大きな勢力だった
そして笠原直使主はその毛野の勢力に圧迫されていてヤマト王権に支援を求めていたのである。
そして毛野系統から南相馬市の鹿島区の浮田に浮田国造が置かれたのである。
毛野がこの争いでもわかるように大きな勢力だったからこそこういう争いが起きた。
ヤマト王権が支配できない大勢力が各地にあったからである。

だから古代の歴史を古墳時代から見るとこの辺では桜井古墳がありそこが一番大きな勢力としてあったことは確かである。
ではそこになぜ国造(くにのみやっこ)が置かれなかったのか?
それは桜井古墳は寺内や小池の古墳より古い、4世紀とかのものである。
それだけ古いということは最初にこの辺で一番大きな勢力をもっていた一群がそこに住んでいたとなる。
桜井古墳は物部氏が作ったものだともされる、この物部氏とはヤマト王権として統一する前に日本を二分する大豪族であり古来の日本の神道派でありそれが仏教を導入した蘇我氏と争ったというのが定説である。ただ仏教に反対したわけではないという説が最近でてきた。

物部氏が東北地方で蝦夷と戦った、それが海老であり海老はエヒであり蝦夷だった。
そして御刀神社がありそこは蝦夷と敵対する場所にあり刀を刺したところだとなるとまさに蝦夷と戦った場所にふさわしいのである。
地理的に考察すると納得することが多いのである。
神社というのはなぜその場所にあるかが問題になる、その場所なくてならないものとして神社がある、古墳もまたどういう場所にあるかがそれこをみることが大事になる
歴史を場所から地理からまず解きあかすのがわかりやすいのである。
今なら地政学となるが古代などでもそうなるのはその時はその土地に根付いて生活しているからそうなる、その土地のもので食料でも家の材料でもまかなっているからそうなる

ただ古代で複雑になっているのは日本では渡来人が濃厚にヤマト王権が成立する過程でも深くかかわっていた、それと仏教も深くかかわっていた
ヤマト王権は鎮護国家として仏教を採用して統一したという経緯があるからだ
その象徴が奈良の大仏なのである。
そこにも渡来人が朝鮮半島の韓国系がかかわっていたのである
鹿島区にある唐神という地名がそうである。唐の神でありカラとは中国のことではなく韓国のことである。韓(から)でありカラとつくとき韓国系統と関係しているのである。
そして今東北電力が建っている所の鳥打沢も発掘したが大きな製鉄遺跡でありそこにも渡来人がかかわっていた
そして発掘されたの武器を製造していたのではなく仏教の祭具などが多く発掘されたのである。蝦夷制服のための武器が製造されていたのではないのである。

なぜ桜井古墳がそんなに古いのもに国造(くにのみやっこ)が置かれなかったかとなるとそれはかえってそこが一番この辺では発展して人口が多く勢力があったからヤマト王権に組み入れられない、国造(くにのみやっこ)の地方官が置かれなかったとなる
毛野氏がヤマト王権と対立して争いがあったように毛野氏もヤマト王権に全面的に服属していたとはならないのである。

ただ古代というとき縄文時代のような延長のようにみることもある。
でも実際はこのように強力な政治勢力が争っていた時代だともなる
それは今北朝鮮をめぐって中国とアメリカとロシアがせめぎあったり日本もかかわっているのとも同じである。それだけすでに中央の政治でも地方にかかわっていたのである。
その要因はヤマト王権が資源を求めて東北に進出したからである。
それは技術者の渡来人を先導して深く東北に鉄の生産とか奈良の大仏の鍍金になる黄金だとかを求めて進出してきていたからである。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

すめろきの みよさかえむと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく

草原(かやはら)となっているけどこれはとても萱原だとは思えない、萱だったらその当時どこでも繁っているからだ、ただ寺内から小池辺りもそうである。
だからといってあの辺は確かに真野郷だけどそうとは思えないのである。
確かなことは韓半島の渡来人の技術者とともに鉄や黄金を求めてみちのくにヤマト王権が進出したことなのである。
その一連のものとしてその過程の中で真野の草原が地名として知られるようになった。
草原(かやはら)はだから自分では地名説をとっているのである。
萱が繁っている光景はその当時めずらしくないしそれがただ美しいからとして奈良の都で話題になるとは思えないからである。
話題になったのはそこに鉄がとれて黄金がとれたことだからである。

ともかくその文化財の人は外部から来た人である、でもなぜ考古学などに興味をもち就職したのかである。普通はそういうところにはよほど興味がないとしないだろう。
その人は聞いたがそれほど興味あって就職したようではない
発掘して古墳としてわかるのは円形の溝のようなものが発見されるとそこが古墳とわかるそうである。円形の溝を造り土盛りしていためだそうである。
でもそういうものを見いだすのも容易ではないと思う。
これは地味な活動である、ただ寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたように宝物が発掘されば興味がでる、何も発掘されなければ古墳すらなかったとなると徒労にもなる
学芸員が観光の邪魔をしている、役に立たないというときそうかもしれない
例えば金銅双魚佩の模造品を示して観光させればわかりやすいとかある
やはり学問というのは専門もあるが教育とは違う、わかりやすく面白いことが要求される
どんな学問でもそうでありすべてのことに人は詳しくなれない、でも何かわかりやすく説明されると興味をもつようになるからである。。


とにかくこの辺は建物がまだ次々に建つから都会化しているのである。
今日は小池のコモドインのホテルでカレーを食べた、うまいカレーだった
一人しか入っていないのも不思議である。


posted by 老鶯 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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