冬の暮(今日も駅に見送る)
80の歳と昔の駅語る親交あたため冬の日さりぬ
ふるさとの駅に帰りて冬のくれ別れを惜しむ80の人かな
年はふり芒の枯れて別れゆく故郷の駅今日も見送る
今日見送ったのは80歳の人であり大宮の人だった。親戚とかでくるのは東京辺の人が多いその人は80歳の人であり昔の駅は高架橋をわたるのはこっちの方だったとか言っていた。そういう時があったのか忘れていた、蒸気機関車の時代も経験している
自分が子供のとき知っているのは引き込み線があり荷物をそこで下ろしていたのである。それで近くに縄屋とかなったのは梱包するために縄を必要だったためである。
輸送がほとんど鉄道に頼っていたからである。
駅は何か迎えたり別れたりする人間臭い場所だったのである。
自分が無人駅になった鹿島駅で案内して一緒に見送りしていると奇妙な感じになる
自分も一緒に別れを惜しんでいる感覚になる
道の駅とかバスの停留場ではそううい感覚にならないのである。
そこが鉄道の魅力なのである ただ新幹線になるともうそういう雰囲気はない
ただ止まるまもなく過ぎてゆくだけだとなる
人間的になる時間ないのである。
待つ時間は実際は人間的なものを演出する、待っていることが旅で記憶に残ることを何度も書いてきた。待つ時間が実は旅では重要な要素になっていたのである。
自分が駅員のようなことをボランティアで演じているのも奇妙ではある。
何か自分は鉄道の旅が長いから駅でも愛着を感じるからそうなった。
駅はつくづく人間臭い場所だったのである。
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