新しい新地駅が復興構想の見本
(発想の転換で新しい街作りー小高や浪江も参考になる)
人の和も大事、復興も人でもある
新地駅があれほど変わってしまったのには驚いた。人間は変化が激しいとそれが現実のように思えなくなる。それは津波とか原発事故でこの辺では経験してきた。
津波は本当に現実に思えない災害だった、こんなことがあるのかと夢見ているような気分がずっとつづいているし今もまだその津波の被害の跡に立てばなる
今回新地駅に行って不思議だったのはそこは人間の力で変えてしまって現実のように思えなかった。前の駅とは全く違ったものになっていたからである
何か宇宙ステーションなのかデズニーランドの仮想駅なのかそれも現実に思えないように変わったのである。
そういうふうに駅でも人工的な人間の作ったものでも変わると辺りの風景まで変わって見える、蔵王が見えて白鳥が飛び大きく開けて海が見えてかなたに牡鹿半島と金華山が見えた。景観が抜群になったのである。だから新しい観光スポットになると思った。
おそらく鉄道マニアなどがこれから来るかもしれない。
ただ不満だったのは過去の津波のことがその駅に来たら思うものがない、つまりまるっきり変わってしまって過去の痕跡がなくなっていたのである。
その被害は写真とかで見る他なくなっていた。
するとそこにあった津波で死んだ人たちとかも忘れられるとなる
過去と現在を結ぶものがない、全く新しい空間になってしまったのである。
だから駅員は年取ったひとだけどあういう場所には若い人がふさわしいと思った。
その新しい空間でこれから津波の被害があったにしろ若い人はここで生活して行くからである。だから女高生が電車でおりて歩いてゆくのがふさわしいとなる
それは都会的風景なのである。
違っているのはそこは広い自然的空間の中にあったということである。
だから都会の駅より気持ちいい場所になったのである。
ここはだから小高とか浪江で今年は鉄道が通るというとき復興の参考になる。
新地駅があれほど変わったのはやはりあそこはもともと田んぼであり何もない空間だった海の方に村があったがそれもみんななくなった。
するとその広大な空間が生れ自由に新しい街を設計できるようになったのである。
そういうことが女川町とか他で起きているのである。
街ごと泣くなってしまったからそうなる。何もなくなったからこそ新しい街作りができるとなる
その時そこに古いものにこだわるとき新しい街作りはできなくなる
ただ古いものも活かした街作りが歴史を活かした街作りも必要なのである。
ただ古いものにこだわりすぎると新しいものは作りにくいのである。
それで女川町では若い人にその街作りをゆだねたのである。
老人は口だすなとなったのである。
新地駅を中心としたコンパクトシティはやりやすかった。あれだけの広大な空間が生れたからである。そこに温泉も出たということで憩いの場所になるし農園も作る広さがある。そしてこの辺と違って原発の被害がそれほどなかったことも幸いした。
この辺は原発の放射能被害が致命的だったのである。
ただ原発の補償金など新地ではもらっていないからあれだけ広い敷地にも家はぱらぱらしか建っていないのである。鹿島になると三つくらい新しい街ができるほど住宅地が生れたからである。それは原発マネーがあったからである。
とにかく発想の転換が必要なにる。今までは駅は車社会になり利用者がへり駅前通りもさびれシャッター通りになった。でもこれからはまた鉄道も見直されるかもしれない。
そして駅前に大きな駐車場スペースができた。すると車の人も温泉などあれば寄ることになる
公共的施設も文化会館とも作るというからあそこが新しい一つの街になる
すると鉄道でも車でそこに人が集まり人の流れができることになる
あそこは広場の役目も果たす、外部の人と内部の人が交わる場所にもなる
とにかく景観がいいからそれが最大の魅力になると思う。
それで小高などでも駅中心にこうした新しいコンパクトシティを作るのもいいかもしれない、今までの駅前通りという発想では新しいものはできない
この際、今まであったものを無視して新し街作りを目指す、それで新地駅が見本になる。ただあの駅にしても地元の人が新地町の人が役所でしたはいうわけではない、ほとんどはJRが作ったのである。今はこうした会社の力がないと大がかりなものは作れない時代である。
浪江でも今年中に鉄道も通るというとき小高とも結ばれるからそこで復興のはずみとはなる。ただ新地駅のようにはならない、そこが問題なのである。
でも浪江町でも小高でもまず今までのような街はもうありえいことを自覚すべきである。そういう前の街にこだわると新しい街作りができないからである。
ただ伝統的なもの歴史的なものは継続されるべきである。
だからといって前の街のイメージを強く残りいだいていると新しい街作りはできないのである。
だから若い人に新しい街作りを女川町ではまかせたのである。
原発被害地域ではその肝心の主役となるべき若い人が流出したから復興できないのである
鹿島駅で大阪から除染に来た人がこの辺は人がいいから三年もいたなとか大阪弁で話した大阪弁だともめんるんだよなとか言っていた。
都会を嫌う人もいて田舎が見直される時代でもある。
そういう人が移り住むといいとも思った。
その人は旅の人ではないからこの辺の人とか事情を知った人だから違っている
三年も住んでいたらやはりかなり土地のことに詳しくなる。
こういうときは移り安いということもあるから移り住む人がいるかもしれない。
ただ今のような状態ではとても住みたくないとなるだろう。
飯館村の場合は草野を中心にコンパクトビリッジになるのか?
若者を住まわせるための新しい住宅を作っている。
ただソーラーパネルがそこに大きくしめていたり前のような村の景観が多少壊されているでも飯館村でもやはり新しい村作りをする意外にない。
それがどういうものになるのか?それは町や村でもみんな個性があり違っているから個性的な村作りになる。飯館村だったらどうしても山村だから山を活かす村作りがふさわしいとなる。でも放射能被害で山菜がとることができないなど苦しいのである。
牛を飼うにしても土地の牧草を利用できないとか前のようにはいかないのである。
ともかく発想の転換が復興には必要なことは確かである。
でもそれは一番むずかいしことかもしれない、今あるものから人間は発想しているからである。
新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)
タグ:震災復興
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