2017年01月04日

マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)

マスコミはもう終わっている

(これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)



テレビ報道の現場は、誰に向かって何を伝えるべきか、また自分たちが視聴者や取材相手にどう思われているのか、見失っている。そう懸念するのは、ある民放キー局元幹部である。


マスコミというとき放送する相手が誰かとなると日本国民とかでありその範囲が広すぎるのである。マスコミニケーションでありマス(大衆)を相手にして放送する。
全国放送だとどうしてもだから一様な放送になる、大衆相手だから視聴率をとるために芸能人を出す、知識人でも芸能人なのである。
電波芸者だとか揶揄された人もいる、マスコミは何か真面目なことを追求しているわけでもない、視聴率を稼ぎ宣伝費を稼ぐためにある民営の会社にすぎないのである。
だから報道に対する使命などないのである。
でもなぜこれほどマスコミが社会に影響力をもっていたのか?
それは全国放送するのがキー局が六つとか独占されていたからである。
前はテレビでしか知ることができないことがあった。

そもそもNHKが受信料をとるのはテレビを普及するためだったという。
テレビが出たときはテレビは高いもので見れなかったからである。
だからその時テレビで放送されるものはその内容ではない、テレビに写るだけで見られたのである。
テレビにでるだけでつまらいな人物も有名になり政治家になったりした。
有名になるにはテレビが一番効果的だったのである。別にその人物は問わないのである。大衆受けする面白そうな人を抜擢して視聴率を稼ぐのである。
また団体の圧力がありそううい人を出す、だから今やマスコミに選ばれ出る人は何かうさん臭いとなったのである。芸能人と変わりないと見られるのである。
マスコミ自体がすでに信用できないものとなった。だからトランプが大統領になったことでもマスコミの権威は地に落ちたのである
アメリカではそんなにかたよっていると思えなかったがそこも同じだった
アメリカのマスコミを言うことを日本のマスコミも一方的に報道するだけだかったのである。

どうしても今までは東京中心の放送になる、出版すら東京中心にしないとできない仕組みになっていた。地方から全国放送することはできなかった。すると東京中心の放送だけが流されることになり地方のことは放送されない、また関心ももてないのである。
例えば地方からそこに住んでいる人たちが発信するのと東京などから外部から来て伝えるものの何が違うかとなるとまず地方には代々住んでいる人たちがいるから時間軸として歴史的にその土地のことをみる、そこが根本的に違っている
なかなか時間軸でみることは外から来た人にはむずかしいからだ。
外国でもヨーロッパなどでも歴史があるから時間軸で見るのがむずかしいのである。
それは津波で流された新地駅のことを書いたがあそこは津波で流される前に自分は何度も停車して下りていた。
なぜなら下り列車が交換のために3分間とか5分間止まっていたからである。
その時ホームにおりて待っていると虫が微かに鳴く音を聞いていたのである。
今は津波で流されて新地駅は高くなりエレベーター付きの都会風の立派な駅になった。
すると前のようなひなびた駅の感じがしないし前の駅のことを思い出せなくなる
こういうふうに大きな変化があるとたちまち記憶が失われるのである。
だから江戸時代が何かとなると相当に想像力豊かにしないとまるで異国になってしまうのである。

報道というとき何かあっても必ず時間軸で語るということも必要になる、それは東京からよそから来た人たちには記者にはわからないのである。
新地駅に来ても自分のように語れる人はいない、そこはどこの地方でも同じである。
時間軸で語ることはそこに長く住んでいないと語れないのである。
報道というとき今を語るだけでは見えてたない、過去から語るとき今が見えてくるからだそれが外から来た人たちには見えないのである。
ただ外から来た人たちにも有利な点はある、何かそこの土地のしがらみとは関係なく客観的放送ができることはある。
でも客観的になることもその土地のことを知らないとむずかしいとなる
この辺は原発の補償金でもめた、その事情も複雑になる、でもNHKではそういう事情が知らないわけではなかったが原発避難民側について放送したのである。
それには問題があったと自分は指摘した、ただそれは地元の人でないと気づかないようなことだったのである。だから全国放送されたときなぜ原発避難者に回りの人が冷たいのだと思ったことは確かでありそれで感情的にみる人もいたとなる
その土地に土地の事情がありそれを一方的に放送することがマスコミ報道の危険だった。それは今までは放送する手段がないのだからその効果は絶大だったのである。
マスコミが世論を作っていて選挙でもマスコミの力で煽動で政治を動かしていたのである
報道というときこれも土着的な報道というものが必要である。その地に根を下ろした人が伝えるのと外から来た人たちが伝えるのは違ったものになるからだ。
例えば福島県でも民報と民友があるがこれは福島県全体の報道である。
そうなると必ずしも地元に詳しい人とは限らない、福島県でも広いからである。
ハマ、ナカ、アイヅとあるとき本当はこの三つに区切った報道が必要である。
それは東電の原発事故で浜通りが実は被害があった。放射能の被害というより双葉とか大熊と富岡とから大量に避難してきたことで直接的に感じるものがあったからだ
そして原発事故の補償金でいわき市に次々に家を建てたとき顰蹙かったのである。
二万人も移住して一時はパニック状態になったからである。
でも補償金はいわき市民はほとんどもらえなかったのである。
浜通りは原発地帯というとき一つの共通意識をここではもつ必要があった。
そういうことを浜通りに根付いて生活する人からの発信が必要だったのである。
原発はそれだけ重大なのに浜通り全体の問題してとあったが認識されなかったからだ。
原発はなになのか良く検討もされないしただ利益になるというだけで受け入れていたのである。

でも原発が作られたその土地の事情としては出稼ぎをなくして働く場所を与えることにあった。だから原発は別にその時は危険なものと地元の人は思っていない、それより働く場所を収入を欲しいということで作られたのである。
それで室原だとか飯館村の比曽とかからも原発で働いていたのである。
いかに原発がこの辺では働き口となり恩恵を得ていたかが事故後にわかったのである。
ただ原発のことはこの辺ではもっと報道されても良かったがされなかった。
それより報道できなかったのである。「安全神話」が作られて危険だと口に出してもいえなくなっていたのである。それは福島県の報道関係は全部そうだった。
東電からみんな宣伝費をもらっていたからだ。それはマスコミ全部がそうだったのである何かそれを象徴していたのは朝日新聞社までマスコミの幹部が中国に東電から接待されていたとき事故が起きたのである。
マスコミは全部原発の危険性について報道しなかったのである。
その危険を喚起することもしなかったのである。

誰に向かって伝えるべきなのか?

まず原発周辺の地元住民に向かって危険を伝えるべきだった。そこに報道の使命があった報道は会社の宣伝のためにあるのではない、地元住民のためにある。
だから会社の宣伝費で成り立つこと自体すでに報道の使命は果たせないのである。
新聞社はあらゆる会社でも団体でも資金が入ってくる。民報などは聖教新聞を刷っているすると創価の支持に従うことにもなる、すでにもうここに報道の使命は失われている
創価の悪口は言えないことは東電で原発を作ったときも賛成の意を紙面で書いていた。
それはやはり宣伝費が大きいからである。それはどこでも同じだった。
要するに報道は金のあるもの権力あるものに従うだけになっていた
マスコミとはただ大きな権力に従うだけであるからそれに従うことはまた大きな権力に従うように仕向けられるだけだとなる
結果として巨大な事故となりまた戦争にもなり地元住民が国民が大被害を受けるのである
ただ新聞でもテレビでも報道に金がかかりすぎるからそうなった。まず会社の支援がなければ成り立たないのが報道会社であり一営利会社なのだから倒産してはもともこうもないのだから利益を第一にする、だから大きな権力、金があるところには従うほかないとなるそれで報道の独立性が失われているのがマスコミだった。
報道が第三の権力だというとうときそうした独立性がないなら住民のためになる報道もできない、ただ権力に従うだけだとなってしまうからだ。
だからなぜトランプが勝ったのか?泡沫候補としてマスコミでも馬鹿にされていた人が勝ったのかとなる、マスコミを信用しなくなったからなのか?
何かそういう変化があった。マスコミはアメリカ国民の不満が大きい層のことを見逃していたのである。つまりウオール街とか一部の富裕層側に立っていたのである。
アメリカでさえそうなっていた、金で操作される報道機関になっていた。
それは結局マスコミがアメリカでも報道に金がかかるからである。
インターネットは金はかからない、そこが最大の強みである。
手間はかかるが金はかからないのである。別にいくら書いてもいいし制限されることもないのである。
それで一応全国に放送される、これもありえないことであり今やインターネットは不可欠なものとなった。そしてマスコミは凋落してゆくとなる

マスコミにかかわる人の恐怖はテレビの放送でもyoutube並になるのではないかということである。youtubeで400万回も見られたというのには驚いた。
するとテレビ並になる。テレビは何か特殊なものではない、ありふれたものである
そして大衆向きだから視聴率第一だから何か勉強することはできない
プログの方が詳しい人もいて勉強になる、自分のことを言うのもなんだが俳句短歌を学ぶなら自分のプログが参考になるとかなる
そういうプログが増えた、テレビはただコンテンツを報道する箱になる。
それはインターネットで報道しても同じだとなる、すでにNHKではインターネットでも報道するようになるとしているからだ。
報道も水平化される、並列化されるのである。今までのような報道の特権は権力は失われたのである。

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