2016年12月28日

海は誰のものなのか? (原発事故で明らかになった漁業権者の権利の責任)


海は誰のものなのか?

(原発事故で明らかになった漁業権者の権利の責任)


原発事故というとき被害者の面が強調されるけど加害者でもあった。避難民となり故郷に住めなくなった人たちも被害者だけど加害者だったのである。
だから今になると国民が負担を強いられるから不満になる
原発でいい思いしたのにあんなに手厚い補償をされていいのかと批判される
それは富岡とか大熊とか双葉とかは特にそうなる。そこがまた一番被害が大きかったからである。でも恩恵も一番受けていたのである。
福島県だって被害者だけど恩恵は受けていた。

今になるとおかしなのは漁業権をもっていた漁業組合は最も恩恵を受けていたのである。自分は知らなかったけど原発御殿が港には建っていたのである
金の襖を作るために東京の職人を呼んだという話も今は伝説にもなる
なぜなら津波でみんな流されてしまったからである。
だから港に住む人がみんな恩恵を受けていないからここでもまたその日頃の不満が爆発して罰あたったんだという人さえいる

そもそも海を東電に売り渡すというけど海は誰のものなのか?
釣りする人も自由に釣りできないからその不満を言っていた。それも一理あったのである漁業資源の保護だったからわかるけどそうではない、海を権利として漁師がもってそれを売り渡した、そして多額の補償金をもらっていた。
だから海とか山とか大地でもそれが誰のものかとなるとそういうものを所有できるのかとなる
入会権とはそもそも個々人で所有できない、みんなで所有するということで生れた

ところが明治になると私的所有権認められて山も個人所有となり無数に分割されたのである。そうなると何かするにも公共の工事をするにもいちいち個人の許可をとり土地を買うようになる。それで災害のための工事するのがむずかしくなる
それで大きな自然災害を防ぐこともできないとまでなる
自然はそもそも私的に所有しにくいものである。なぜなら山でも大地でも海でも一定区画を所有できないのである。みんなそれらはつながっているからである。
そういうものを私的に所有させるようにしたのが明治以降なのである。

だからそれが極端化すると自分の家の海の前まで権利があるとして所有権を主張していたのである。そうすれば補償金が東電からもらえるからである。
この辺では避難区域になったところでは私道とかまで権利の対象になったのである。
こういうふうに私的所有が極端化したのが明治以降だった。
今でも農家では共有の志向があり共同作業をしている、そして農地は簡単に宅地にできない、売れないというとき土地がつながっているからである。
例えば水にしても山から流れて田んぼをうるおす、そして山が神となり春に里におりてくるというときそれは自然から生れた信仰である。
つまり江戸時代までは私的所有権はなかった自然は共有だったのである。

だから飯館村で除染なんからするより自分の土地を売って金にしたいという、それもわかる、除染がそんなに効果あるようにもみえないからである。
除染する代わりに金をもらえば一億とかにもなるからである。
でもそうなるとその空いた土地は誰のものになるのか?
国のものになったりするとき放射性物質の処理場として使われるかもしれない、すると土地はつながっているから南相馬市まで流れてくるからその土地は飯館村だけの問題ではない、飯館村だけで決められることでもない、現実に真野ダムに放射性物質が泥として堆積して下に南相馬市に流れてきているのである。
放射性物質のつまったフレコンバッグが破れて川に流れ出したこともあったように飯館村でも土地は切り離せないからそうなっているのである。

だからいくら漁業権をもっているからといって東電に売り渡して多額の補償金を得るということはまちがっていたのである。
つまりそうなら南相馬市だったら南相馬市民とか相馬市民とかいわき市民とかこれも全体で協議するべきものだった。
俺たちが漁業権をもっているんだ,市民は関係ないとなったことがまた問題だったのである。
ではそうなら漁業権者が今になれば一番責任があるのだから責任とれとまでなる
でも実際は何の責任もとらない、かえってまた立派な家を補償金で真っ先に建てたのが船主などであったのだ。
請戸の船主も相馬総合病院の特等室に入り家を建てると豪語していた
これも回りの人がどう思うだろうか?そういうことを全然考慮していないのである。

つまり今になると何か私的所有権を認めるのはいいとしてもそれは相当な責任が課せられていたのである。確かに東電に漁業権があり売り渡しても自由だとなる
ではその責任は誰がとるのか、私有権を主張した漁業組合がとれとなる
しかし実際は何にもとっていない、かえってさらに事故後も補償金は特別にもらいつづけているのである。
「この海は俺たちのものだ、俺たちが権利があるんだ、だから東電に売ろうが俺たちの自由だ」
でも今になるとその権利がある故に重い責任も課せられていたのである。
その責任も全くとらないということもおかしなことになった。

今の時代はともかくどんなことでも権利を主張する時代になった。民主主義はともかく権利を主張すること私的なものであれ何であれ権利を主張することこそが民主主義だと教えられてきたからである。
それはいいとしてその権利には責任が課せられていたのである。
一体、海でも所有して山でも所有してその責任がとれるのかとなる
だから漁業権でももし市民とかに範囲を広げて所有していれば東電に簡単に売り渡すことはできなかったかもしれない、でももし市民の合意で売り渡したならその責任は市民全部が負うことになる。
だから別に漁業権者だけが批判されることはないのである。
市民全部が共同でその責任を負うことになるからである。そういう覚悟で原発を作らせることになるからである。

いづれにしろ明治以降平等になったとき権利はみんな主張しても責任をとる人がいなくなったのである。
侍がいた時代は侍が責任をとった。平民には権利がなかったからである。
「言わず、聞かざる、見ざる」だったからである。
権利がないなら責任もないのである。でも権利があると重い責任が課せられていたのである。
だから侍は責任をとるとき切腹させられたのである。
たがら侍になりたくないという人もいた。それは責任があまりにも重いことを平民でも自覚していたからである。
今は平等でも権利は誰でも主張しても誰も責任はとらないのである。
戦争でもそうだったし国民に責任があるとなり誰も責任はとらない、でも結果的に国民が3百万人も死んだかのだから責任をとらされる
この辺の原発事故だってやはり市民が町民が村民が責任をとらされた
故郷にも住めなくなったということである。
人間はつくづく責任から逃れられないようになっていたのだ




posted by 老鶯 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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