2016年12月19日

情報は権力によって操作される (トップダウン型とボトムアップ型の情報)


情報は権力によって操作される

(トップダウン型とボトムアップ型の情報)

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●トップダウン型情報操作

情報摂取の方法はこれまではトップダウンしかない、マスコミのみが報道する権利をもっていたからである。
だから大衆はマスコミに操作される、権力者はマスコミをおさえればいいいとなる
それで東電と政府は安全神話を形成しやすかったのである。
マスコミ金さえつかましておけばいいとなっていたからである。
それで安全神話は強固に作られていたのである。

つまり情報はトップダウン型になる、権力者がいてその方針に従わせるように情報を操作するのである。
安全神話でもそうである。原発を危険だと言わせないように情報操作する
ほとんどのマスコミがそうなっていたのである。
福島県でも民報でも民友でも原発安全神話に加担して安全だと宣伝して金をもらっていたのである。

権力者がいて情報は操作され民衆は知らされない、知ることもできないのである。
言わざる、聞くざる、見ざるになっていた
これだけの情報社会になっていてもそうだった。かえってテレビ時代とかなると百万人も見ているというときその効果は絶大なのである。
大衆は本などは読まない、テレビだと楽だしわかりやすいから洗脳されるのである。
大衆を操作するというときナチスの手法がいいのである。
大衆にむずかしいことをいっても通じない、簡単に単純化することである。
それが最後にはハイルヒットラーになるし題目を唱えればいいとかなり大衆化する
その時ラジオを百万人以上が聞いていたとするとその効果も絶大だとなっていたのであるラジオよりテレビはその十倍も効果あるものとなった。

それはトップダウン型であり大本営型である。一方的上からの権力側からの情報操作である。戦争に負けていても勝った勝ったとなり原爆落とされるまで日本が勝つと思っていたのと同じである。
原発でもその前にいろいろ事故があっても隠されて安全だ安全だと情報操作していたのである。強力なトップダウン型の情報捜査である。
なぜならそれに逆らうものは疑うものは特高につかまったからである。
トップダウン型は権力をもっているから情報操作できるのである。

今回のNHKでの原発避難者側に一貫して立つというのは上の人が決めたからである。
トップダウンで決めるのがマスコミなのである。
NHKは別に他にも原発避難民でも小高の家具職人とか復興に役立つようなことを放送している
だからNHKの報道をすべて否定はできないし復興にも寄与しているのである。
ただ原発避難者に関してはかたよっていたのである。

報道というとき情報を集めるがその情報と関係なくトップダウン型はなる、まず上の人が方針を決めてそれにそって情報を集め編集して操作するからである。
「地元には補償金などでもめていて原発避難民がギャンブルで遊んでいる不満もありますが」とか知っていしても方針が原発避難民側に立つと決めているのだから一切原発避難民のことは非難しないのである。
トップダウン型の情報操作や発信はそうなる
マスコミの情報はみんなそうである。トップダウン型である。
上の人が原発にも危険があるんじゅないですかと疑問をもつ社員がいても上の人が方針を決める、宣伝費の額が多いので東電にはさからえないとかなるのである。
そしてトップが方針を決めてトップダウンに情報を操作するのである。
そこでは事実もねじまげられる、事実があってもないとされるのである。
報道するにしても報道されないことも無数にあるからだ。
ニュースは一人一人が実際はニュースとなりうるから膨大なのである。

●新潟県巻町は新潟日報の報道で原発をとめた

インターネットは下からの様々な情報が発信される、それがあまりに多すぎるのでギブアップになる。網の目のように情報がつながるのだが多すぎるから選ぶことだけで苦労だともなる、その点トップダウン型の情報に接することは楽なのである。
だからこそ洗脳されやすいのである。
情報はやはりボトムアップ型が本来は民主的である。トップダウン型には権力側のほしいままになってしまうからである。
それで戦争のときも大本営発表でありそれとにていたのが原発の安全神話だったのである

本来情報は事実を報道することでにあった、その事実を解説したりすると事実より解説の方に左右される、コメテーターの言うことに左右される、そのコメテーターも主体性はない、マスコミの局の上の人によってすでに方針が決められていてそれに沿って発言しているだけなのである。マスコミを見ばみんなそうである。
そこで自由な発言が許されているようで許されていないのである。
そこには確実にタブーがありそれにはふれてはならないのである。

読売新聞社の正力松太郎が最初に原発を誘致したというの事実である。それで原発の父とも呼ばれている、でも読売新聞社の日本テレビがそのことを言ったら拒否されるし日本テレビには出れない、でも日本テレビでも原発被害者を応援しているのである。
だから自分たちのことは棚にあげて原発を推進させたのに応援しているというのも矛盾なのである、一般にマスコミは安全神話を作った仲間だったが反省していない
福島県でも民報でも民友でもそうである。最初から安全神話に加担して東電などから宣伝費をもらっていたのである。それも多額になっていたと思う
だから地元の新聞社とか地元にある会社などは何のためにあるのかとなる
地元に貢献するためにあるはずだがそうなっていなかった。
自分たちの会社が第一であり県民とかのことは二の次なのである。
要するに宣伝費が入らなかったら会社自体が成り立たなくなるからである。

読売新聞もテレビ局も正力松太郎本人もCIAからコードネームまで貰っている、とんでもない売国人なんですね。その精神は現会長の渡邊恒夫まで引き継がれており、読売グループ全体がアメリカの思惑通りに動いていると見られます。そんなテレビや新聞が信じられるでしょうか?日本国民のためになるようなことをするはずがありませんよね。読売りグループも電通も同じ穴のムジナです。もちろん他の新聞社やテレビ局も似たり寄ったりで、今日も嘘八百の情報を垂れ流しています。

マスコミはみんなにたりよったりなのである。金に支配されているのである。
もしインターネットのように無料で放送できたらそんなことはない、取材する力は格段に劣るし広報力も劣るが別に東電でも政府でも批判しても宣伝費とは関係ないからつづけられるということはある。
ただインターネットにしても個人になると非力でありどこまで原発の問題を追求できるのかとなるとまたむずかいしとなる
ただ報道がマスコミがいかに民主主義社会では重要な役割を果たしているか

それはなぜ新潟の巻町で原発を拒否して建てさせなかったか疑問だったがそれがわかった「原発プロパガンダ」という本を読んでわかった。
新潟日報が新聞社が原発の危険性を指摘してそれをゆずらなかったからだと書いてある。巻町とか小さな町で巨大な安全神話を作ったものに抵抗できるとは思えなかったからだ。つまりそれだけマスコミの影響が大きかったともなる
福島県でもむしろ積極的に安全神話に加担して東電などから金をもらっていたからであるその相違は大きかったともなる。それは本当にまれなことだと書いてあった。
するといくら新聞社でも宣伝費に左右されるとしてもそれだけの抵抗もできたということにもなる

そもそも報道はなんのためにするのか?娯楽の提供ということすらある、時間潰しにテレビを見ている人も多いからである。
今回の原発避難者の報道は三回自分は見た。どれも原発避難者側についた報道だった。
では何を言いたかったのか?

原発避難者を受け入れた側が責めるな、仲間に入れろ

そういうことなのか?それを目的にして指針にして番組を上の人が編成したのだろうか?
そうするとその報道が必ずしも地元の人たちに有効に働くとは限らない
なぜなら原発避難者に不満に思っている人たちがいるからである。
その原因に補償金問題があるからである。
だからそういう放送して原発避難者のためになるかというとそうでもないのである。
原発避難者はそれでいいと思ってもそうでもないのである。
ますます原発避難者に反発する結果になったともなるからだ。
そうした一方的な放送をすることによって原発避難者にも思いあがる人たちがでてくる

NHKではマスコミでは原発避難者に同情して放送しているのにお前は責めている
そんなこと良くできるな、楽しいかとか自分を批判する人がいた。
もしそうして原発避難者のことをマスコミでも多少は批判していたらはそういうことはなかったかもしれない、何だあいつは俺たちのことを原発避難者様のことを批判するんだ、そういうふうに思い上がった人間に仕向けたということもあるからだ。
そういうことがすでにあり反発していた人たちも地元にいたので火に油を注ぐ結果ともなる

●報道は事実を報道することが基本

つまり報道というのはまず事実を報道することである。原発避難者が団地ができてそこに住んでいるということは事実である。そして大熊であれ双葉であれ浪江であれそういう人たちが住んでいるのも事実である。
他に津波の被害者も住んでいたとかいうのは事実である。
そういう事実だけを報道していたら問題はない、そこで起きた対立がある、その対立している一方について報道することが問題だった。
別にそういう混在した人たちの間でうまくいかないとか対立もあるようですと言えばそれは事実だからしょうがない、でも回りの人が受け入れてくれないとかということを一方的に原発避難者に言わせるとなぜなのだ、冷たいなとか見ている人はなる
それは全国放送になるから影響がNHKの場合大きくなるのである。

むしろ報道してもいいが対立があれば地元の人たちが融和するような報道がふさわしいとなる、何かそれがなかったのである。だからその報道が地元の人たちにとっていいものとはならなかったのである
別に何かの被害を惨状を訴えるのは必要である。それを知りたいからである
でもその現場から事実を伝えることだけでも誤解を生むのが報道だと思う

熊本がいつまでも震災当時のままなのは、あまりにも、広いし、 
数多いし、実際車で走ると、延々とどこまでもブルーシート続くし、 
近所も、空き家だらけになるし、見た目よりダメージでかい。 
あのマンションも空き家になったか、この通りも住めんのか、 
一見街並みは普通なのだが、住んでいないし、 
じきに廃屋になるし、 
以前は、プールにもよく行ってたが、ほとんど休止してるし 
しかし、文句は言えん。大変な人たちがたくさんいるし 
まだまだ全体が集中治療室にいるようなものだ。 
ほんとに、来たんだな大地震が・・・・いまだに 
なじめん。まさか、ね、あの大地震がほんとに来たとは・・・・・ 


こういうふうに文章で読むのとまたテレビで見るのとは違う。この文章から熊本地震の影響は広範囲だと想像すると感じる
でもテレビだけだと何か一部分の惨状は見ているけど全体には感じないのである。
テレビの画面は何か一部分しか写しにくい、テレビは小さい箱にすぎないのである。
でも実態は空間は限りなく広いのである、その広い空間をテレビに写すとき狭い箱に写すことになるのも誤解を生む、だから全体の被害が見えないということはある
報道というのはそもそも実際に自分で見たものでもないし聞いたものでもないから常に誤解が生じているのである。
だからそもそも情報は操作されやすいのである。映像ですら今は簡単に素人でも作られる、それで勝手にテレビ局が作った映像を流して問題になったのである。
テレビの映像でも本当の映像なのかどうかもわからない場合がある

実際に見たものとは違うからである。自分もプログに写真をずいぶん出してもやはり実際に見たものとして感じることはむずかしいだろう。
それは他の人の写真でもそうである。写真だけの映像ではすべての情報ではなく一部の情報なのである。その写真をとったとしてもそこの空間であれ天候であれ暑さであれ寒さであれ風なども表現できないのである。
そこにどんな情報でもテレビでも映像でも伝えるには限界があることは確かなのである。
事実を報道するにもその事実を現場にいないのだからそこから誤った見方が生れるのが報道なのである。映像でも必ずしも真実は伝えられない、文章の方が真実を伝えることはありうるのである。だから本当は複合的に見る、文章でも映像でも人から直接聞くでもいい、複合的に見て聞いて判断するのが一番いいのである。

でもそんな暇ある人はいない、それこそ情報に追われて一日が終わってしまう。
だからインターネットは便利なのだけどみんなに読まれないから影響力が出ないのである検索するにしてもめんどうだからそうなる。
情報にしても同じ情報でもいろいろに比べると真実が見えてくるということもある
でもそういうふうに情報の真実を探るとういだけで手間になりすぎるのである。
第一自分のこんな長い文章を読むのも手間だとなる、疲れるともなる
でも2ちゃんねるにはボトムアップした発言があってもそれを深化する、深く読むことが欠けている、なぜなら短い文しかだせない、貴重な発言があってもそれが価値あるものとできないのである。
いづれにしろトップダウン型かボトムアップ型へ移行してゆるのが民主主義にとっていいい、進歩である。そのメデアとしてインターネットの普及がありマスコミを監視してゆくことは必要なのである。

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タグ:情報操作
posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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