ことわざは人間の普遍的真理
(損して得をとれ)
何かこの十年社会経験を積んだ、社会経験が自分にはたりなかった。それで何か自分には欠けていた。
三〇年間くらい社会から離れて生活していたからである。どういうわけかそういう環境にあり社会知らずにすんでいたのである。
ということはあまり社会の悪い面を見ずにすんでいたし悪に染まるということもなかったそれはいい面と悪い面がかならずでてくる
社会と交わらないで生活していると不思議にみんないい人だと思ってしまうのである。
学者の問題は浮世離れになり現実の生活が見えなくなることである。
それ理系の研究者などならかまわないが文系となると社会経験がないの致命的である。
象牙お塔とかで学者は社会の実体験をしていないから浮世離れになり非現実的世界にとじこもることにもなる
何か官僚などでも東大閥とかで法律分野関係が独占してそれが日本をおかしくしているというのもそうである。
大岡裁きとかあるけど裁判などは相当に人間に通じていないとできないだろう。
ただ法律だけでは相手が人間なのだからできない、情がなく理だけではできないのであるだから人生経験が豊かでないとできないということがある。
でも大学からすぐに司法関係に就職すると社会を知らないままに人間を知らないままに専門職となり何か現実社会とはかけはなれた見方をするようにもなる
「法匪」というのもそういうものだろう
匪とは賊に近い意味の言葉で,匪賊という言葉もあります。
昔,中国共産党は赤匪と罵倒されていました。
法匪とは,法律知識を悪用する法曹関係者に対する罵倒語です。
法をたてにして悪さをする、弁護士などもそういうことがある
社会というのは人間そのものが変わらないから諺(ことわざ)に真理がある。
もしこれだけ文明的に進歩したとなれば人間そのものが変わりそんな昔からの諺はすたれているはずだからである。
人間は例え飛行機にのり電車にのり車にのりスマホで通信してパソコンを操っていてもその本質は変わらないから諺は今でも生々しく生きている
今回の銀行の投資信託でもそうだった。
「魚心あれば水心」となる
こういうのは相手がもうかりますよというときそれを聞いている人ももうけたいからそれにのってくる。もし別に自分はもうけたくない、金はこれ以上ふやす必要はない、今あるだけで十分だと思っていればそうした勧誘にはひっかからないのである
だからこそ何か売りつけるとかのときは魚心あれば水心なのである。
こういう諺は長い人間生活の中で誰言うともなく普遍的なものになっていったのである。
「損して得をとれ」
これも何か商売している人たちが長年の経験の積み重ねで納得するものとなった。
商売というのもそれも長年の経験がないと理解できない、商売上手というとき単に人をだまして売りつけるだけではつづかないだろう。
だから大阪や近江商人が有名なのはそういう積み重ねの結果として会得した商売の心得が生れた。それは単にもうけるということだけでは商売がうまくいかないからである。
その人は理系分野ではすぐれていても経営となると商売の要素が大きく入ってくる
その人は最初から絶対損をしてやるものかと身構えてきた。
もちろん借金しているから追い詰められているからそうなったこともあるが
自分が苦しみ病気になっていても介護でもそれを商売にして取引してきたのである。
だからその人はもう絶対損してはいられないという態度で接してきたのである。
何か商売しているうちにそういう態度が身についたのかもしれない、相手が苦しい時がチャンスと取引として商売とて接してきた。
だから「損して得をとれ」などありえない、得することしか頭にないのである。
それで自分は苦しめられたのである。
だから商売で人格が変わってしまったとなる。なぜなら若いときはいい人だったと知り合いがしきりに言っていたからである。
つまり人間はその仕事によって人格が作られるということがある。
だからこそ職人気質とかが生れた、江戸時代だと何か職業でも道徳的には今の社会とは違ってまともなのがほとんどだったのである。
そのことが外国人が日本人を見たとき幸せそうな顔をしていると見たのである。
今の社会は何かブラックなものが多すぎるのである。
いづれにしろ損して得をとれというとき人間は何が損が得かわからない、計算できないのである。損したと思ったことは得に通じるし得したことが損になる
そしてまず人生は損得では計れない、人生をふりかえると損したと思ったことが結局は得だったが得したことが損だったなどということは普通にある、めずらしいことではない
人間はともかく利益あげようあげよう得しよう得しようと必死なっているのが日常である目先の利益に血眼になっている、今利益をあげればいいのだとなっている
でも今の利益が後の損になっているかもしれないのである。
自分が商売のことを言うのはどうかと思うが自分のわずかな経験から言っている。
商売でもつきあいでも損して得をとれということは経験してあるから諺になったのである銀行が株とう投資信託に手をだして一時的には利益を上げることに成功しても将来的にどうなるのか、地域の人々の役にたつ銀行なのか?地銀の役割は何かなのかと問われる
そしてまちがいないのが
「金の切れ目が縁の切れ目」
これもただ金を求めるものはみんな現実にそうなった。現実社会は利で結び利で分かれる金の切れ目が縁の切れ目なのである。こいつはもう金にならないとなれば分かれる
用なしだとなる。
最初から得しよう得しようときて後は得にならないから用なしだとなる。
どうしても苦しい人とか困った人とかに接するときは損することになる
でも損したくないとなれば福祉関係でもかえってそれを利用して得することを考えるし実際に福祉関係でもそういう弱者相手に商売している人たちはそうなっているのである。
誰も慈善活動で商売をしているのではないとなるからだ。
今の社会とか会社の問題はあまりにも利を血眼になって追求しているからモラルの荒廃が生まれた。江戸時代は貧乏でも職人は技をみがくことに精出していた。
ただ商売関係だとどうしても現代に通じる問題があった。
何か職業をみると自分の所にきた仙台のユニットバスを作ってくれた人は安かったしそれで安上がりにしたというものでもない、だから安くていいものを作ってくれたからその会社はいい会社だしそこで働く人たちもいい人だと見るのである。
個々人にはいろいろあってもそういう人たちはモラルの荒廃はない
でも銀行でも官僚でも政治家でも医者でもマスコミでも学者ですら御用学者となり原発を推進してきたようにブラックなものが多すぎるのである。
江戸時代がモラル的には優れていて民心が安定していたというとき農業中心の社会だったからということもある。農民だったら自然を直接相手にしているから気が長いとできない、森林でも木材をとるには五〇年とかかかるとしたらまず一代では収穫できないのである。それで農民は三代つづかないと仲間になれないというのもそうなのだろう。
それだけ気が長い仕事なのである。
大根の種を今まいたとしても成長するには三カ月も必要だとというときそれも気が長く待つ仕事なのである。だから農業は忍耐をはぐくむということはある。即製できないからである。
現代はあまりにも変わりすぎるのである。そこに民心の安定もない、目先の利益だけに血眼になっている。株でも投資となればやはりその会社が成長するには時間がかかる
でも投機は違っているのだ。為替差益とかで即製的にもうけることなのである。
現代は瞬間瞬間の即製的な投機が経済になっている、それが世界を歪めてしまったのである。
国家にしても国家百年の大計とかあるけどそういうふうに考えることもなかった
めまぐるしく変化する社会に追いつくこと追われ社会なのである。
目先の利益獲得に追われる社会なのである。今もうけなければもうかならいという社会である。株などはそういうものだからそこでモラルを醸成することはむずかしい
そうなるとどうなるのか?今は得してもあとで大損になっているともなる
その得した分が今度は子孫の負担として損になるともなる
原発事故は一時的には利益を地域にもたらしたも結果的には大損になったからである。
そういうことはこの世にかなりある、現代の問題は江戸時代のような時間の悠長さがもてないのである。分刻み仕事に追われている、目先の利益をあげようとしてかえって大局的長期的には損になる
だから何か得になるか損になるかわからないからこそ「損して得をとれ」という諺が生れたのである。
慌てても「損して徳とれ」の効果は期待できません。長い期間の「いい仕事」「いい事」の積み重ね、心の底からそう思える綺麗な心を兼ね備えなければ偽善になります。
類義語に「損せぬ人に 儲けなし」「損は 儲けの始め」「損をして 利を見よ」などもあります。
得とは徳ともしている、となると損することは徳を積むとういことにもなる
何か損したと思ったことは実は徳を積んでいたことにもなる
このサイトは要点をついている、長いつきあいとかを考慮しているからである。
現代に欠けているのはこの長期的視野とか長い視点なのである。
ギャンブルになると今もうかればいい、今大金をもうけることになる
それは株にもある。株などは長期的にみると上がったり下がったりしているから長期的にみると損しないともなる、そもそも投資というときそれが今大金を投入しても成果をあげるのはすぐにできない、特に新しい研究分野になると何十年とか新薬の発明にはかかる
事業でもすぐに成功することはない、でもすぐにみんな成功したいのである。
利益をあげたいのである。現実に事業でも金がかかるからである。
ただ自分も失敗したから他人をとやかくは言えない、何かはじめても成功はすぐにはできない、プログなどでもこれも積み重ねである。すでに十年とかしていればそこに情報の蓄積ができあがる、プログで検索するとそこに膨大な情報がありそれが図書館のように役にたつとなる
インターネットでは最初はたいした情報がなかったが知識がなかったが今や膨大なものとなっている、それは情報や知識の蓄積ができてきたからである。
そうなると参考にすべきものが多くなってくるのである。
巨大な図書館の機能もつようになっている。
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