七ヶ宿街道を行く(秋の短歌十首)
(一本の線につなぐ記憶の不思議)
秋の灯や四万石の上山
数匹の虫の音聞き入る七ヶ宿
七ヶ宿虫の音ともしあわれかな我が聞き入りて去りにけるかな
七ヶ宿何かあらむや広々とダム湖に写る秋の雲かな
街道に畑を耕す人ありて旅人一人秋深まりぬ
鏡清水写せし姫の面影やしばし我がよる秋の夕暮
上山街道来たり秋の夜ともしびあわれ一夜泊まりぬ
七が宿本陣宿秋のくれもてなす村人貧しき思ふ
上山江戸には遠し何伝ゆ街道行くや秋深まりぬ
街道は芒の原や上山なお遠しかも夕暮れ迫る
七ヶ宿街道淋し上戸沢下戸沢と来て木の葉散るかな
坂道の急なるかな難儀して一すじ見ゆる山の街道
ようやくに坂をし下りいでにける桑折やさらに江戸は遠しも
記憶のことを書いてきたけど本当にこれがわかるのは老人になってからである。
記憶したものが人生ともなることは何度も書いた。
だから何が記憶されるのか?それが問題だとなる
旅をしても何を記憶されているのか?記録と記憶はまた違っている、記録というのは無数にある、ところが記憶はその人の内面化したものであり単なる記録とは違う。
そこが記録が何か無味乾燥になるが記憶は人間の存在そのものにさえなる
歴史でも記録は無限大でありとても知り得ようがないのである。
でもその歴史でもある人の経験とかかから語ると何か血の通ったものとなる
今回の記憶はなぜか七ヶ宿町で虫の音に聞き入っていたことである。
そこで自転車で疲れて長く休んでいたのである。
その時虫の声を聞いていた、あそこは淋しい所である。家もまばらである。
その虫も数匹であった。
寂けさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉
何かこの句と通じるものがあった。そこでじっと耳を凝らして聞いていたのである。
その時はただ疲れて休んでいただけだが今になりそのことが記憶として蘇ることが不思議なのである。
それはなぜか?そこに長くいたことと辺りが静寂につつまれていたためである。
それが記憶として蘇った要因である。
都会だと人ごみの中にまぎれいったりすまとそういう場所は記憶されない、家だってごちゃごちゃして人ごみの中だと記憶されないのである。
つまり現代は何か深く感じない、記憶されないことが多すぎるのである。
それは静寂がないとか人が多すぎるとか交通が便利だとか機械や道具に頼り記録したとしても記憶にはならない、記憶とは必ずしもメモしたりデジカメでとったりしても残らないことがある。それはあくまでも記録なのである。
記憶とは心の内面に感じたものなのである。それは人間のみができることなのである。
芭蕉の奥の細道は心の内面で深く感じた旅だからこそ生れた。
それは江戸時代という環境から生れた芸術だから今になると作れないとなる。
でもにたものとして虫の声を聞いたのが通じるものがあったなと今ではふりかえる
旅するときはこうして国道とか行くとそこは車だけが行く騒音の道と化している
だから旅しても心に残りにくいのである。
七ヶ宿街道などは何か淋しいのである。忘れられた道である。白河街道でもそうである。でも昔はここが江戸に通じる本道だったのである。
この旅も白石の方から来たのだから歴史をたどる道ではない、そして羽州街道として桑折から小坂を上ったときはその坂の急なことに難儀した。山の中をおりてくる道も急だったこんな急な道を来たのかと驚いた。
自転車で歩いて上るほかない急峻な峠道だったのである。
これもまた下る道だったら別だろう。
何かここを一つの昔の街道として行ったのではなく白石の方から入り桑折から上った
二回に分けて七ヶ宿街道を旅したとなる。
現代は何か部分的に歴史をたどる道でも行くことになる
本当は街道だったら一つづきとして旅するのがいいがそうしにくいのが現代なのである。そうすると昔をたどる、歴史をたどる旅になるのである。
ただこれも本当は一番いいのは歩く旅であるがそうなると時間が何倍も車だったら十倍とかもかかるからできなくなる、今一番ぜいたくな旅は歩く旅になったことは皮肉である。歩くことは人間を回復することになったのである。
上山藩は四万石だった、相馬藩六万石である。野馬追いがあるからもっと大きい藩のように見えてもそうではない、上山はそれよりも小さかった。あの城はそんな感じである。
でも城があるから昔を偲べるということにはなる。
やはり城は街の中心にあり要なのである。城がないと何か見るべきものがないとなる
常に人間は何か中心がないと景観でもひきしまらないのである。
山形県の旅の回想の短歌 (秋から冬-七ヶ宿街道など)
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