2008年08月09日

北京オリンピックに関心もてない (オリンピックをする意義が見いだせなくなった)


北京オリンピックに関心もてない
(オリンピックをする意義が見いだせなくなった)


●オリンピックに飽きた
 
オリンピックのこと前にも書いてきたけど今回特に関心がもてない、つまらないと言いながらそれなりに見ていたが今回は見る気もしない、ただ女子のマラソンくらいである。いろいろ問題あるオリンピックだけどみんなオリンピックに飽きてしまったのではないか?オリンピックというショ−に飽きたのだ。0・01とか時間を争うのももう人間の限界で世界記録はもうなくなってきた。人間の限界が見えてきた。もう一つは世界中でテレビが普及したし日本ではテレビ自体見ない若者も増えてきた。テレビに熱狂したのは団塊の世代の子供時代からだった。その時は写るだけで興奮していた。食い入るようにテレビを見ていたのだ。テレビの力はすさまじいものだったのだ。内容はなくてもテレビに写るだけで見る人がいくらでもいたのである。今ふりかえると芸術的価値としては映画の方があったのだ。映画は一つ一つが芸術作品として作られている面があった。テレビはただ写るというだけで芸術性はもともと低かったのだ。その時はボクシング、相撲、野球でも全国民がみんな見ていたのである。歌謡番組でもみんな見ていたのである。だからテレビに出る人はテレビに出るだけで有名になれたのである。みんな見るものとしてテレビは茶の間に不可欠なものだった。茶の間の中心がテレビになっていたのだからその影響力は甚大だった。テレビに影響されないことはありえなかった。テレビは空気のようなものであり知らず悪いものでも感染していた。その影響力を止めることはできなかった。ニュ−スそのものがテレビ中心になったとき影響される。テレビに報道されないものはないことになってしまった。テレビで報道されないものでも国民にとって重大なものがあったが報道されなければ知りえようがなかった。ニュ−スでもいくらでもあるがこれが重要なニュ−スだというのはマスコミやテレビによって決められていたのである。
 
●北京オリンピックは天の意に逆らうものだった
 
テレビは映像中心の世界であり今回の北京オリンピックでも派手な映像ショ−だった。これはテレビを意識して作られていた。全世界に放映されるテレビでしかオリンピックを知り得ない人たちを意識して作られたのだ。中国の歴史や中国の国威高揚、ナショナリズムがそこで高められる。中国人の一体感が高められる。国威高揚がオリンピックの目的であり中国はオリンピックを通じて世界のプレゼンスを拡大化できる。オリンピックは人類の平和の祭典ではない、国威高揚だから中国でチベットやウィグルで民族弾圧しても各地の民族衣装を着させてオリンピックを盛り上げようとした。でもそれがチベット問題やウイグル族のテロなどで世界中の人が知っているからしらけたものとなった。中国の一体感は作られたものであり嘘であることがその前に報道されていたからしらけたものとなっていた。その前にまた四川地震の悲惨さも報道された。その影響も大きかった。こんな危急のときにオリンピックなどしていられるのか、命の方が大事だから政府は救済に力をそそぐべきだという民意も大きくなったしオリンピックに不満な中国人も多くなっていたのだ。易性革命が起こりそうな気配すら地震であった。天の意志が北京オリンピックをやめさせようと働いた気すらしたのである。

中国の儒教を考える上で、もう一つ大事な思想について言及しなければなりません。それは、易性革命についてです。易性革命というのは、要するに、天命を失った国は滅び、新たに天命を得た国が興るという考え方です。殷が滅んだのは、最後の皇帝紂王に徳が無かった為に天命を失ったからです。殷が滅んで周が興るのも、これ、天命。儒教の考え方によると、そういう事になります。

北京オリンピックは天命に反していたからその前に地震とかテロとかが起きてきた。テロは人為的なものであったが地震は天の意志が働いたいたとなる。オ−プニングショ−でも論語を竹簡で読んでいたけどオリンピックが天の意志に反していると論語の読み方にもなる皮肉があった。
 
●オリンピックは国威高揚と商業主義に汚染されすぎた
 
オリンピックのもう一つの大きな推進力となっている商業主義が嫌われる。企業の宣伝に選手は使われ選手も金のためにやる。それは人類的意義を追求したものとはかけ離れたものとなっている。高邁なオリンピックの精神はすでに死んでいたのである。残ったのは国威高揚と商業主義なのだがそれもテレビに興味がない、オリンピック自体に興味がない人が増えてきたのだ。何か見ていてもつまらないのだ。世界中のプレヤ−が集まるのだからそんなはずがないのだがそれも飽きてきたのだ。世界中の人が集まるのは今やありふれたことである。そこで競うのも記録でももはやのばすこと世界記録など出すことは限界に来ている。それより世界の関心は四川地震のことをテレビで知っている。そしたらもっと地震で被害にあった人に援助すべきだという世界世論にもなる。世界的に協力するのは苦しむ人たちであるべきだとなる。それは自国が災難に見舞われたらやはり世界の国から援助してもらいたいとなるからだ。世界世論というのはもはやオリンピックは偽善であり平和の祭典でもない、国威高揚と商業主義に汚染されたものでありオリンピックという世界的エベント自体に興味を失っているのだ。ただオ−プニングショ−が漢字と書の国らしく日本とも共通の文化として理解できるものがあり悪いとは言えなかった。やはり中国と文化の共通点があるということは連帯感を生むのである。漢字を使っているのは中国と日本だけだからだ。しかしあとオリンピックで見るのはマラソンくらいである。スポ−ツも文化だとするときすでに柔道などでも日本の文化が失われた柔道になってしまった。柔道の精神が失われた柔道になってしまった。かえってグロ−バル化したことでそうなってしまった。グロ−バル化することはかえって本来もっていた文化を喪失することもあるのだ。オリンピック競技になったのはいいとしても勝つことだけにこだわるゆがめられたものとなっているからだ。いづれにしろオリンピックは弊害の方が大きくなってしまったのだ。だからいづれオリンピックはなくなってしまうかもしれない、世界陸上などは残るがオリンピックはあまりにも国威高揚や商業主義に汚染されすぎたのである。本来の目的とはあまりにも違ったものとなってしまったのだ。

 
オリンピックに興味がもてない原因(2)

http://musubu.sblo.jp/article/18056341.html
 

世界陸上はつまらない−オリンピックも商業主義の世界的ショ−化した
http://musubu.sblo.jp/article/5222136.html

 
 
 
posted by 老鶯 at 01:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
どんな物でも時代と共に変化していきますし
自分がそれを変えられる力を持っていない限りは
それを見ないようにして他の楽しい事に目を向けたほうが精神衛生上いいかもしれませんよ
それに勝ちに拘るのは本能的に仕方ありませんし
何年も練習してきて参加できるだけでいいと
心から思っている選手って極一部なのでは?
少なくとも自分のベストの力を大舞台で出して誇りたいという思いはあるでしょう
それに文化が失われるのは悪い事ではありませんよ
本当にその地域の人が価値を見出している文化は失われません
失われるとすればその地域の人にとって失われたり変化してもいいと思われているのではないでしょうか
それを無理矢理守ったり保護したりしてみても
結局の所は滑稽な結末にしかならないと思うのです

そもそも昔からそんなに高貴な精神で行われていたのかどうか、本当の所は分かりませんよ
何でもそうですが現実と理想をうまく融合させる道を模索しない限り
現代の全てを否定して世捨て人にでもなるしかないです
Posted by りょう at 2014年02月18日 20:26
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