2016年11月08日

人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない


人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない



1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

伝道の書(口語訳)は新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」



人間は何でもタイミングである。植えるに時がるというときその時期を逃すと実りがなくなる。死ぬるに時があるというとき今では死期を医療で無理やり伸ばして苦しんでいる。その人にはそれぞれ死期がある。死ぬにも時期がある、もし死ぬ時期を逃すとただ無益であり苦しむだけだともなる。ただその時期は人によって違うからわからない。

何か植える時というとき、少年とか思春期とか青春時代は植える時であり最も大事なときだった。この時代を良く過ごした人はのちにも思い出となり残る。
自分は学校に適応できないからこの時代はいいものではなかった。
この若いときは必ず老年まで尾をくのである。この時はどうししても若気の至りになる
それがその時だけのことであり消えてしまうと思っているが消えないのである。
それがあとで大きな誤算だったことになる。

仕事でも新卒として大企業が採用するのはその会社になじむ、その会社に適合して仕事を覚えるのはその時期だからである。そこで仕事を覚えれば会社に適合させるから会社では新卒を採用する、それで一生が決められてしまうというときそれも若いとき一生が決められてしまうということである。
それはいいにしろ悪いにしろそうである。そんなことで一生を決められてたまるかと反発する人もいるのは当然である。
ただ30くらいまでに一生の方向が決まってしまう
そこから別な方向を目指すことはむずかしくなる、若いときはそんなことがあるか、時間などいくらでもある、暇で暇でしょうがないんだよな、時間がなくなることなど思う人は一人もいないのである。
実際は「光陰矢の如し」あっとういまに人生が終わったと最後はなる。

だから人間にとってタイミングが一番大事なのである。タイミングを逃すとそのチャンスは二度とこない゛チャンスなんかいくらでもある、一回失敗しても誤ってもまたやるチャンスはあるとか思う、それもあったとしてもタイミングと時間は人間にそんなに与えられていないのである。
学ぶにしても学ぶ時がありその時学ばないとあとでもう学べない、本などでもいくらでも読めるとか思ってもできない、ええ、これしか読めなかったのかと驚くのである。
みんな人生これで終わりかこれっぽちの人生かとなってしまうのである。

 焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

こんなものになる、一生が若いときはとてつもなく長く感じられるが老人になるとあっというまに終わるとなる。その違いが大きいのである。
植えるときとは若いときだがその時を逃せばあとは学ぼうとしても学べないともなる
もちろん学ぶことはできても本でも厚い本などは読めなくなる、そしてくだらない本を読んでいたなと後悔するのである。こうして老人で悔いてない人はいないのである。
今になるともっと何かを学び何かをしていればいいと思ってもできない、これからいくらでも時間があるからできると思っていてもたちまち「光陰矢の如し」であり少年学成りがたしなのである。

どんな人生でも数回重要な決断がある、それもタイミングなのである。
自分のような平凡な人間でもそうだった、親元を離れ東京の大学に入ったこととかそうである。それは親元から離れるということで意味があった決断だった。
創価とかカルト宗教団体もやめたのも決断だった。師を否定して去ったのも決断だった。その時そうしていなければずるずるひきづられてしまうのである。
何しても無益なことはないこともいえる、なぜなら人間の経験する時間があまりにも短いからである。経験したことはやはり血となり肉となるからである。何か青春時代は一番事が起こりやすいのである。多くの人に出会うのもそうである。
あとは意外と人とも出会いがないのである。それもタイミングを逃しているのである。

タイミングというときあらゆることがタイミングなのである。株でも投資信託でもこれもまさにタイミングだった。買ったときの値段でもうけが決まる、わかりやすいのは為替の値段の差益である。110円の時買ったが100円に円安になり損になり回復するのに時間がかかる。もし100円の時買えば今なら105円とかから売れば即もうかるということなのである。それは株とか全模範に言えることなのである。

求道でも青春時代にしないとできない、宗教は老人になってからかえって傾倒する人が多いかがそれはまた違ったものである。
「若いとき、造り主を覚えよ」というときその時を逃したらできないのである。
そしてその時はチャンスは永遠にないし将来もないのである。
だから貴重な時間と数回のタイミングでチャンスをものにするかどうかで人生は決まる
チャンスも何回も来ないのである。人が困ったときたその時大きなチャンスなのである。その時ともかく動機が不純でも助ければ恩に着せておこうとでも思って助ければやはりチャンスをいかしたことになりその人に恩を着せてもそれは返してもらうことがありうるのだ。そういう動機ですら人間は活かしていないのである。
困っている人がいても何もしないしかえって自分のように苦しめられただけだともなる
津波でもそうだが火事場泥棒とかは常にそういうとき出てくる、自分もそういう目にあったからである。

要するに人間はいかに時間を無駄にしてチャンスを逃しているかということである。
誰にでもそういうチャンスは巡ってくるがそれを活かせないのである。
悪を成すチャンスもありその悪を成すことの方が多いともなる、善を成すチャンスが悪を成すチャンスになる。若いときは悪を成すことが多いのもそのためである。
いづれにしろあらゆることに国政とか経営とかそうした世俗の活動でもタイミングとチャンスをいかにものにするかなのである。
タイミングがあやまるとすべてが狂ってしまうのである。奇襲が大きな成功をおさめるのはやはりタイミングを活かすからである。でも逆にそのタイミングを誤るとその結果は惨たんたるものになる。でもそのタイミングにチャンスに賭けない限り勝利はないのである歴史でもそういうふうにいかにタイミングを活かすかチャンスを活かすかで勝敗が分かれるのである。

タイミングを活かしたものが歴史に名を残すともなる、義経であり信長であれ秀吉でもそうである。吉田松陰も明確ではないがやはりタイミングを明治維新の動乱に活かしたとなる。そうでなければただ作られたテロリストにはすぎないともならないだろう。
一方でいくら英雄になろうとしても時代が英雄を作るからなれない、三島由紀夫がそうだった。時代にぞぐわないタイミングが良くなかったから歴史には残らない、いくら無理しても英雄にはなりえない、どうしても時代をは越えられないのである。

原発事故にしたって事故の前にはもう戻らない、それでそれぞれが決断を強いられる,もう帰らないと決断した若い人もいるし人生が無理やり変えられてしまったのである。
それを嘆いてもどうにもならない、時間を元にもどすことができないからである。
戦争で300百万人死んで戦争がどうだったこうだったと今言ってもその時代はすぎたのであり時間をもどすわけにはいかない、ただ300百万人の死者の重みが後世に残されたし
原発事故だって一万年プルトニウムの毒が消えないというのもそうである。
一度起きたことは時間をもどして元にもどすことができないことが深刻なのである。
だから原発などは危険なのだからよほど慎重にして是非を考えるべきものだったのであるこれだけの甚大な被害が出てから遅いということである。
それはここの人生でも同じだったのである。

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