二宮尊徳の思想が見直される時代
(グローバル資本主義経済は限界に来ている)
大地の実り
大地は誰とも争わない
人間は境界を作り争う
大地は誰とも争わない
大地は深く沈黙して
様々な実りをもたらす
大地は誰とも争わない
大地はひたすら忍耐して
人に実りを与える
その土地土地に何がしか
神は与えるものがあり養う
その分を与えて養う
そこに人の生きる土台がある
その分を越えて求めるとき
人に災いが起きる
人は天より神より罰せられる
分度と推譲
「報徳」の実践で、特に重要な概念が「分度」「推譲」だ。
「分度」とは、あらかじめ定めた収入の範囲内に支出を収めることを言う。尊徳は、過去に遡る調査で見定めた土地の生産力に基づき、農民と領主双方の取り分を設定した。
その上で農民達には勤労を求めた。努力すれば、分度を超える収入が生まれることになるが、この分度以上の収入は、子孫や他者に譲ることとされた。これを「推譲」と言う。子孫への推譲は将来世代に残す貯金であり、他者への推譲は地域への寄付と言い換えられる。
経済倫理の根幹といえる。金銀財宝そのものは決して貴いものでなく、足るを知る心こそ何にもまして、貴い宝である、
相馬藩では二宮尊徳のことは常に語られている、二宮尊徳の弟子となった人がいて二宮仕法を実践したからである、二宮尊徳が直接来て指導したわけではない。
二宮尊徳の思想と実践は江戸時代の封建制という制約の中で実践された。
江戸時代というのは役とか分度とかが常に言われた時代でありその分を越えないというのが日々の生活の中で習慣化していたのである。
士農工商とは身分制のことではなくその分を役を与えられて生きることでありそれぞれに与えられた分度を越えてはならないというのが生活の中で徹底されていた社会である。
その江戸時代と対比するとき明治から現代の変化は余りにも大きかったのである
特に高度成長時代というのは江戸時代からつづいた経済感覚を全く変えてしまったのである。分度もなにもない、グローバル経済にとりこまれ欲望のグローバル化だった。
食糧でも世界から入るあらゆるものを食べるようになった。
江戸時代は物が少ない時代だから当然質素倹約になる。それは明治から戦後十年は日本は貧乏だから質素倹約が自ずと思想になる
だいたい人間は歴史をみれば庶民であれば質素倹約であり贅沢していたのは王侯貴族とかほんの一部だったのである。それが高度成長時代のグローバル経済で過去の王侯貴族並みの生活になったし庶民もそれを当然のように求めるようになったのである。
その時経済の変化として生産より消費が重んじられるようになった。消費が美徳となったお客様は神様ですとまでなった。金を払い消費する人が偉いとなったのである
普通だったらこれまでは苦労して生産している人が偉いのである。
この辺では原発事故の避難者が仮設に入っている、そ人たちは金が入った、その仮設の人たちは何もしないで遊んでいる人たちが多かった。ギャンブルしている人も多かった。
ある女性の人はここで金使ってやっているんだから地元の人は助かっているんだよと言っていた。
このことにも現代人が消費者が王様だともなっていたことがわかる。
原発事故の影響は広範囲で補償金をもらったのは避難した人たちでありあとは何ももらっていないのである。
その避難した人たちは病院であれ介護であれ何でも優先になったのである。
あらゆる保証があり優先されたのである。
そこで地元の人たちが不満なのは当然なのだがそういうことも感じない人もいたのである金使ってやっているんだから地元の人も助かっているんだという考えはまさに現代の消費が美徳、消費者が王様だということでありその金が原発の補償金でないとしたらそんなに言われないだろう。
これもまた現代の矛盾でありそれが露骨に原発事故で現れたのである。
あいつらは毎日補償金で遊んでいる、地元の人たちはその人たちのために働いている
そうなればやはり地元の人たちだって不満になる
これは特殊な例にしてもやはり現代を象徴したものとして起きたのである。
グローバル資本主義経済の問題はもともとあった人間の経済から発した道徳を破壊したことにもある、二宮尊徳の思想が生まれたのは現代のようなグローバル資本主義ではない、江戸時代という分度を守らねば生きていけない時代だったのである。
そういう制約の下に必然的に生まれた思想である。
資本主義でも税所は修道院から始まったというとき資本蓄積が勤勉という質素倹約のモラルから始まった。それは二宮尊徳の思想と同じだったのである。
それが今は全く違ったものとなっている、強欲グローバル資本主義であり金融資本主義であり一攫千金を求めたりあくことなく世界的に欲が限りなく拡大した社会である。
そこには分度などというものはない、だから極端なのは中国の共産主義国家でも巨万の富を得る人が出てきて王様並の富を得ている矛盾がある。
そういう巨万の富を得ることがグローバル資本主義の成功者であり庶民でもそういう人たちが憧れの人となる、そうしたら質素倹約というモラルはない、金融で株で一攫千金をねらうとかになりやすいのである。
もともと分度を越えるのが資本主義の思想としてあったのである。
封建時代の農業中心から生まれた思想とは余りにも違っているのがグローバル資本主義社会なのである。
一国にとどまらない、国を越えて富を求めてヨーロッパの貿易による世界侵略ともなったのである。資本主義に冒険とかイノベーションとか技術開発とか何か質素倹約とか勤勉とかの徳とは違う思想がある。むしろ質素倹約の思想は共産主義にあった
その共産主義自体が資本主義化したから資本主義の思想が世界のスタンダードになったのである。
でもそれも見直す時代になった。様々な矛盾とかモラルの荒廃が生まれたからである。
この辺の原発事故でもそういう時代の矛盾の結果として現れたともなる
なぜなら庶民一人一人でもいかに強欲になっているか、限りない欲を求めているか、
それは借金してまで贅沢するというのが普通である。
そして金がないからと借金を求め自分は節約もしない、金は借りればいいとなり以前として贅沢しようとしている、こんな人間とつきあえのか?
いくら金があってもたりない、そんな無謀な人間が現代の社会が作り出したのである。
結果的には金の切れ目が縁の切れ目となる、それは昔からあったにしろそれはが極端な普通の現象になったのである。
現代はモラルを説くこと自体無駄だとすらなっている。金が暴威をふるい誰もそんなこと聞かないとまでなっているからだ。
だから江戸時代を見直すというとき実は歴史とは過去にあった今に見失われたものを見いだすという作業でもある。現代がなぜこんなふうになったのだというとき過去がどうだったと歴史をふりかえるとそこにモラル的には人間として極当り前の世界があったとなり見直し参考になるということである。
二宮尊徳の思想は特別なことではない、人間として当り前のことである。分度をわきまえるとか余剰を貯えて公共のために他人のために役立てるとかは別に普通のことである。。その当り前のことを実践したからこそたたえられたのである。
民主主義というのもその解釈はいろいろある、でも何でも平等というのはかえって不平等になる。女性も平等を主張したとき男と同じになることでなかった。第一男と同じにはなれない、女性の分を尽くすことが女性として生まれた喜ぶにもなる。
確かに一部の女性は優れていて男と変わらないように仕事できる人もいたがほとんどはそうではない、女性は女性の分を尽くすのが女性にとっても幸福なのである。
その他に人間は何でも平等を追求する、お前と俺は同じなんだ、何でも同じでなければらないとなったらかえって不平等になる。それぞれの個性があり分を発揮するとき社会は多彩になり富むことにもなるからだ。
民主主義の思想は何か?その思想も深く追求されず何でも平等のみが追求されたことで社会を歪めたのである。
だから一見封建時代の分度の思想が古いから現代に合わないということではない。
かえって新たな視点で見直されることがあるのが人間社会なのである。
貿易とかはたりないものを他者から他国から補うということが基本にある、それは助け合いということでもある。ただそれが限度をこしている、江戸時代とか戦後十年くらいの自給自足社会とはあまりにも違った世界なのである。
分度をわきまえない、世界的に限りなく欲望をふくらませてゆく社会である。
それは自然の理にも反する、天の理にも反する、だから突然リーマンショックとか資本主義が恐慌になり破綻するリスクをかかえている。
そういう自分もまた甚大な被害を受けるから喜べることではない矛盾をかかえている、でも素人はもうからな仕組みになっている。
何か手数料などがひかれるしリスクになると大損するからである。
ただもうこうしてグローバル資本主義の限りない欲望の追求は限界にきた。
もう株は上がらないとか石油の値段も上がらないということは生産力も消費も限界にきている。
すると江戸時代の二宮尊徳の思想が見直されたりするのである、それは自然や世界が正常心をとりもどすということにもなる。
現代はそういう転換期にきている、原発事故もそんな危険なものを作ったのも人間の限りない欲望の結果だったということもあったからだ。
それに神からの罰が与えられたともなる、グローバル資本主義は何か人間的モラルに反するから破綻する、金融で暴利をむさぼるというのもそうである。
世界の数パーセントの人が富を独占しているということが異常化しているから破綻してしまう。人間普通の生活をしていれば二宮尊徳の思想のようになる。
それは江戸時代はそういう自然との共生とか自然の制約とか社会の制約で生活せざるをえないから当然そういう思想にもなったのである。
ただ資本主義でもすべてが悪ではなくフロンティアを開くということでは意味があった。それも侵略だったということも言われるがやはり世界がそれに刺激を受けて発展するということはあった。ただそれも今ではマイナスのものとして意識され否定されるようになったのである。
天の理、地の理、自然の理、神の理に反するとき社会に乱れが生じる、ノワの洪水もみな心が悪しくなっとので起きた。
父母根元在天地令命 (父母の根元は天地の令命に在あり)
身體根源在父母生育 (身体の根元は父母の生育に在り)
子孫相續在夫婦丹精 (子孫の相続は夫婦の丹精に在り)
父母富貴在祖先勤功 (父母の富貴ふうきは祖先の勤功に在り)
吾身富貴在父母積善 (吾身の富貴は父母の積善に在り)
子孫富貴在自己勤労 (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
身命長養在衣食住三 (身命の長養衣食住の三つに在り)
衣食住三在田畠山林 (衣食住の三つは田畑山林に在り)
田畠山林在人民勤耕 (田畑山林は人民の勤耕に在り)
今年衣食住昨年産業 (今年の衣食は昨年の産業に在り)
来年衣食在今年艱難 (来年の衣食は今年の艱難に在り)
年年歳歳不可忘報徳 (年年歳歳報徳を忘るべからず)
五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた、大同の思想もこれとにていた。分は仕事のことだった。
こういう思想は農業を通じて生まれたのである。農業は天地と自然と深くかかわるから必然的にそうなった。工業となるとこういう思想は生まれにくいからである。
命長養在衣食住三 (身命の長養衣食住の三つに在り)
衣食住三在田畠山林 (衣食住の三つは田畑山林に在り)
田畑山林が生活の基でありそれは自給自足が基本の生活だったのである。
今はそんなことを考える人はいない、生活の基は電気でありその電気を作る電力会社であるともなる。電気の源は何か?それは石油であるとかなる。
炭で生活していたらエネルギーはすべて身近なものでまかなっていた。山林がありまかなっていた。その差が大きすぎるのである。
勤勉の思想にしても機械が導入すれは働くの機械であり人の労働は軽くみられるから勤勉の思想も成り立たなくる。
ただ以前として人間は天地から離れてありえないのである。
人間の科学でも技術でも限界があるだ。それが原発事故で示されたのである。
分をわきまえることが常に強調されたとき、その分とは役とは国単位でもそうである。
日本にと日本の役と分がある。それは地理的環境でもそうなる。
一国はそうして自然の分として神から天から与えられたのである。だからグローバル資本主義経済はそうした分を生活の基本にしないで無視する。
食生活でも日本だと海の幸が豊富であり山の幸があり縄文時代からそういう生活をしてきたのである。人間は風土を無視してありえないのである。人間の体そのものがその土地土地に適合して長い時間で作られてきたのである。
それで日本人は腸が長いというとき穀物が主食だから牛のように咀嚼して消化するためにそうなった。欧米人は肉食だから肉を消化しやすい酵素が出るということでもそうである日本人には牛肉とか豚肉でも肉食は合わないようにできている、その代わりに貝と魚でも海産分が適していてそれが長寿の国にもなった原因である。
新地の鹿狼山や他にも手長明神の伝説、長い手を伸ばして貝を食べていたというのは日本が海の産物で生活していたためである。
ともかくグローバル資本主義は天地とも遊離しているし国々でも個々でも分をわきまえることがない社会である。ただ金が突出して猛威をふるう社会である。
その富が世界の数パーセントに集中する世界である。それは自然の理にも天の理にも反するから崩壊する危機にさらされる。
資本主義は農業から生まれたものではない、自然と遊離した商業とか工業を基本にして生まれた、人間の思想も自然から離れてありえない、大地でも忍耐しているというとき大地や山でも石でも樹でもそうみる。争わない忍耐して実りがある
でも今はそういう石にも三年とかないのである。手っとり早く金になることしか考えない農業中心だと自然とかかわるから時間の感覚が長い、すぐに実りはえられないからである工業の時間感覚とは違うのである。それは車を利用する時間でもない、牛馬を利用する時間だとなる、動物の時間は人間の時間と適合するのである。
機械に合わせた時間は自然の時間とは違うのである。
そしてあらゆる人が世界の人がその分をわきまえずグローバルに欲望を限りなく追求するそれが天にも神にも許されるのかとなる。そこから今回のような災いが生まれてくるのである。
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