会津より越後(小出)へ(短歌連作)

会津より境を越えて小出かなその道遠し夏の夕暮
小出まで道のりはるか我が休む木陰やここはなお会津かな
只見線はるばる来る小出かな越後の国や夕べ蝉鳴く
魚野川我が足浸し涼しかな会津をいでて越後の国かな
会津より来る電車は二つのみ只見は遠し秋の日暮れぬ
幾度か只見を過ぎて旅行きしその日は遠し会津広しも
雪深く只見の駅やさらになお小出に行くや汽笛鳴りたつ
只見より越後の国の村々や奥深きかも雪に埋もれぬ
会津なれ越後の国や雪深く生活(たつき)厳しき昔なるかな
会津なれ越後の国や知られざる民の暮らしのあるを知るべし
道もなくトンネルなきに雪深く閉ざさる越後貧に苦しむ
越後獅子は、越後国西蒲原郡月潟地方から出た獅子舞。子どもが小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞い歩きました。蒲原獅子、角兵衛獅子ともいいます。
実際、江戸時代には、貧しい家の子やみなし子などが買われて、親方に虐待されながら芸をしたという例も多かったようです
当時は十二、十三の子供たちが、地方から出稼ぎに出て、半ば人身売買のように、大店などで働かされていたのです背中に背負っていた幼児を寝かせ、あやしてみたり、少しませた少女の恋心を踊ってみせたりしながらも、郷里の民謡の節を聞かせながら、幼くも出稼ぎ生活を強いられた若い娘の郷愁を踊ります。
http://blog.livedoor.jp/nisikawaryu1/archives/50629758.html
日本舞踊にも歴史が反映しているのが興味深い。こんなふうには見ない、民謡には悲しい物語が秘められているのが多い。だから哀愁を帯びているのだ。踊りというと華やかなものだが何でも歴史がそこにはある。越後というとやはり雪に閉ざされるから丁稚や酒屋で働く出稼ぎ者が昔からいたのだ。でも今も確かに出稼ぎ者というのはいたが江戸に働きに出ると行ってもその遠さが問題なのだ。新幹線で二時間ではない、そこにこうした歌が残されていて一際哀愁を帯びたものとなる。なかなか故郷に帰れないからである。信じられないほど故郷は遠いのである。この遠さの感覚が喪失したから歴史が実感できなくなったのだ。八十里越えなどもそうである。その道はあまりにも険しく遠い道のりである。とにかく会津は本当に広い、だから会津を知ることは一国を知ることであり容易ではない、でも三回くらい会津から小出とかまで行った。自転車でも一回行った。つくづく福島県だけでも路査したら広いし地理を理解することは容易ではない、今思い出してみると遠い世界になったとつくづく思った。交通が発達して一見近いように思えてもやはり遠いのである。会津は方角もわからなくなる。ここから西会津の別れ道と山の方にはいってく道があったがこれも遠い道だった。西会津には高速バスで通ったが電車では行けない、電車で行けない道はいくらでもある。そこは私にとっては車がないので実に遠いみ世界になるのだ。自転車で別れ道に来ることがよくあるがその別れ道は簡単には入っては行けない遠い道だった。つまり行き帰りを計算すると5キロとして10キロになるから遠いのである。
西会津別れて入りぬ道遠し旅路つきぬも秋の日暮れぬ