介護の重圧は正常心が保てなくなる
(介護で国力も衰退するので捨てるという決断も迫られる)
介護十年もしていると自分の精神状態が異常化していことを終わって気づいた。
30年間は自分はあまりにも恵まれていたからということもあった。
何不自由のない生活を30年間してきたからである。
だからこのことを相当に恵まれていたのである。
介護は何か常に重い石を背負わされていると同じである。それが不思議に介護する人がいなくなっても以前としてその重い石を背負わされているという感じになっていた。
でもその重い石がとりはらわれて何か自由だな楽だなと感じるようになった。
それは別に今までは30年間はそうだったのだけどそういうことが普通のだが介護していたらその普通の状態から離れて異常化した状態になっていたのである。
それは障害者とにているかもしれない、どこかに障害があり足が悪ければひきづって歩いている、それが障害者としての生活だからではもしあなたの足はもう良くなったから歩きなさいと言っても歩けなくなるとういうことがある。
そんな状態が介護の重圧が作りだしていたのである。
介護は介護一や二でも実際は食事でもそうだし何もできないから絶えず見ているということ、目が離せないのである。それより眼を話しても心配になるから四六時中頭から離れられないという重圧なのである。
何か常に重たい石をかかえていると同じなのである。
その介護の時間も最低で五年と十年なども普通にある、長いことがさらに重圧を感じる
一二年では終わらないことが重圧になる
だから妻とか親をある会社に勤めている働き盛りの人が介護して仕事していたけど仕事に集中することはむずかしい、自分は別に仕事しなくても何か重しのようにいつものしかかっているから正常な思考からも離れてしまっていた。
それは何か景色を今までのんびり見ていることもできなかったことに終わってみて気づいたのである。
それほど介護は自分は介護度一二くらいでも感じた、三食用意することも手間なのであるトイレは自分で行っていたしオムツをすることもなかった、それでも重圧だったのであるそれれくらいだから自分のようなずぼらな者でもなんとかやれたとなる。
介護は肉体的なものだけではない、精神的消耗が大きいものだと思った。
だから会社の技術職の人など仕事に集中できなくなる、すると日本の経済にとって損失だともなる、つまり介護は今や金の問題にしても国力を衰退するほどになっているのだ。
その数も増えてくれば当然そうなる
自分はやりたいことをやらせてもらったあとだからできた。それが50代とかなると働き盛りの人もいる、自分の場合は旅が仕事ともなっていたが海外旅行したのは50以降だからもう海外旅行もできないとなっていた。すると何かプログのようなものでも書くにしても変なことを言うことになり笑われていたとなる。
実際それまではそうだったのである。海外旅行の経験がなかったからである。
それから十年くらい海外旅行してきたからそれなりの識見をもてるようになったのである旅するにしてもそれだけの時間が必要になるのである。
だから介護は仕事として若い力を消失させるのはもったいない、というより国力の衰退につながる。それでナチスが障害者を抹殺するという暴挙になった。
障害者の問題は深刻なのである。知っている人でも軽い障害者でも今は40になっても60歳になってもめんどうをみることを親が強いられるのである。それも介護とにているのだ。そしてそういう障害者をめんどうみても誰もそのことでほめる人もいない、親だから当然だとなるだけである。介護してもほめてくれる人などいないし社会的評価してくれる人もいないのである。
だから自分は30歳の頃、叔父にあたる人が癌になり手術するとき輸血を頼まれたが断ったその人は60歳で死んだ。でも自分はその時登山をして体力がないから死ぬほど疲れていたのである。登山はものすごく体力を消耗する、自転車より消耗する
それで輸血を断った、その人は自分を恨んで死んだかもしれない、でもそれより自分はその時登山して良かったなと思う、なぜなら登山は体力あるときでないとできなかったからである。
そんなとき身内の介護でもしたくない、自分の人生が犠牲になる、では何が犠牲になるのか?お前にそんな犠牲になるものがあったのかともなる
でもあったのである。詩を作る、芸術を創造するというとき登山であれ旅であれそういうことは必須なのである。学問でもそうである。現実にこの地球を体感することがまず先にある。そのためには体力ある若い内に登山であれ厳しいことをしていた方がいいのであるなぜなら年取ったらもうできなくなるからである。
それで退職した人が一人旅しているのには最近良くあう、今日も函館から新幹線で来た老人にあったのである。
いづれにしろ介護報酬の問題などあるが介護の問題はどうするかとなるとむずかしい。
それがなぜかというと国力を衰退させるとまでなっているからである。
数が膨大になってゆく高齢化社会だからである。
たいがい介護した人は長いからもう介護にかかわりたくないとなる、自分もそうである。介護の重圧は借金ともにていて借金を返さない限り晴れた気分にならなかったというのとも同じである。
借金している人も確実に正常心を失っているのである。だから頭の中が借金のことしかない、その人が自分が介護しているとき病気になっている時来たのだから最悪だったのである。
第一他人の苦しみなど介護であれなんであれ無関心なのが人間である。
自分が苦しくなれば別だが何もなければ何にも感じないのである。
これから介護をどうするかは国民的課題である。金の面でもそうだし個々人に家族に課せられることでもそうであり世代間の問題でもある。
でもこれを解決することは簡単にはできない、親を捨てていいのかとかいろいろな問題があるからである。
た国でも市町村でももう財政的にも労力でももたないんということが現実に現れている
つまりもう老人は捨てるほかないという決断すら迫られる、特に介護ではそうである。
それは情がないとか愛がないとかの問題ではない、それだけの重圧にもう個々人でも社会でも耐えられないとなるからである。
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