2016年10月26日

深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった (緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった


(緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


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  昔から瀬名は「瀬名千石米どころ」といわれ、田と畑だけの緑豊かな農村でした。
    江戸時代、領主に納める年貢米を保管したり、凶作に備えての貯穀、災害飢饉への備蓄米の非常救済や
    貸し付け米を保存するため大変重要な倉として建てられたのが「郷 倉」(郷は村・里をあらわす)です。
    また、「御蔵」「御倉」(ごぐら)とも呼ばれていました。
    隣にある付属番屋は、盗難や風水害から郷倉を守る常駐の蔵番(番人)をおいていました。
    時には村の会議所でもありました。
    
昭和9年に東北地方を襲った大凶作の際、心を痛めた天皇が下賜した救援資金に、国費と義捐金を合わせて建設されたとのこと。幸生の村民は、天皇の御恩と国民の同情に報いると同時に、自ら凶作に備えるため、共同で「報恩備荒田」を開発したとも記されています。http://www.jafore.org/blog/archives/2008/01/okura.html



今なぜこの郷倉に注目したのかというとこの辺の津浪や原発事故でこの辺が様々な苦難を強いられたためである。それはここだけではない、津浪の被害は東北の海岸線に大被害をもたらした。一時は外から物資が入らず困窮した。停電して水道も断たれた所も多々あった。その時、裏山の水を利用して薪を利用して煮炊きをして難を逃れた人たちがいた。
水も老人が歩いて運んでいたのである。車もガソリンがないと動かなくなるからだ。

南相馬市では市長がyutubeで外から物資が入らないと訴えて世界中で有名になったのは知られている。原発事故で放射能を一時恐れられて車で入って来なくなったのだ。
車社会でも災害時は役に立たなくなることが証明された。ガソリン不足はその後も一カ月くらいつづいたからだ。その時貯えてあるもので生活する他なかった。

自分の家では二週間分くらいの米が偶然にあったので電気も通っていたので煮炊きできた。ガスもあったから料理もできた。ただノリがあったのでオカズはそれくらいだった。
でも米さえあれば二週間くらいはしのげるものだと思った。
それでも電気とか水道が断たれればどうしていいかわからなくなったろう。
その後米はなくなったがその時鹿島区では古米が配られたのである。
その時助かったなと思った。米も切れていたし買うこともできなくなっていたからだ。
その後相馬市の方はスーバーもはじまり自転車で買いに行き楽になった。
その時はまだ車はガソリン不足で苦労していた。


現代のような便利な社会はかえって災害には弱い、電気や水道がたたればお手上げになる。でも災害時にはそうなるのが見えている。だから燃料の備蓄用として電気やガソリンや石油は使えないから危険なのである。むしろ薪とか炭とかを用意していなければならないかもしれない、そのことから一体農業とかでも減反政策とかでやる気がなくなり衰退産業になった。でも農林漁業のもっている意味はそれだけでなかった。
現代社会でもそれは郷倉の意味があったのである。
緊急時に災害に備えるものとしての意味があった。
国全体でも緊急時のために戦争でもあれば食料は入ってこないから備える必要がある。
そういうものとして農業などを保護してきたのである。
つまり現代では農林漁業などのもっている意味は価値は別なものとなっていたのである。

その時金より郷倉に貯えてある古米でも命をつなぐことができた。金を貯えていても何の役にもたたない状態だったのである。それは東京辺りでもそうなる。金がいくらあっても緊急時には役たたない、現物の方が価値がでてくる。だからそういうときは米があれば金がある人は金をいくらだしても買うとかなる。でなければ飢え死にしてしまうからである
郷倉と現代社会 (緊急時の備蓄機能として維持されるべき農林漁業の見直し)


深野にある、豪倉というバス停の地名が気になっていた。それと郷倉という知識はあっただから江戸時代からあったものかと思っていた。だいたい地名は古代にさかのぼり古いのが多いからである。
でも深野とかこの辺の郷倉は昭和以降のものであり昭和にまであったから新しいのであるだから意外だった。

郷倉は「恩賜豪倉」をさし救荒備蓄米を貯える村落の公共施設である。
昭和十年(1935)村議会でこのことが議案になった。
「昭和9年東北凶作に対して畏くも御下賜金の恩命を拝して・・」とある。

石神村の馬場と大原と押釜に設置された。深野は別にまた一棟作られた。
これはその地区のものだけではなく共同でも使用された。
深野だけは一地区で利用された。(原町市史)

深野の豪倉という地名は昭和になって地名化したのである。昭和になってから地名化するのはめずらしい。地名は江戸時代より古いのが多いからである。
ここで恩賜豪倉となっていて天皇から賜ったものとしてあるのもそういうことがあったのかと違和感があった。今なら政府の援助であり天皇から賜るということがないからだ。
そこに戦前と戦後の相違がある。戦争もやはり天皇が現人神(アラヒトカミ)とされていたからである。それは精神的なものだけでなく現実に天皇から賜るということでより身近なものとして意識されたのである。

今は豪倉とあってもそこに郷倉はない、でも地名化しているから必ず意識するのである。地名からだけ意識することが何か地理でも歴史でも多い、現実の建物などはなくなりやすいけど地名は残るからである。取手というとき砦(とりで)であったし地名からその地をイメージするのである。
鉄道の旅だとなぜか地名だけを記憶しているのが多い、辺りの景色は記憶されていないのである。

ともかく豪倉は郷倉であり昭和でもその役目があり作られた、それは政府の意向で政策でも作られていたのである。今なら備蓄することでありそれはどこでもしている。
ただ今回の津波と震災の経験では二週間くらい食糧も物資も入ってこなかったのである。一週間くらい米があったので食べていたがきれた。その時古米が配給されて助かったのである。それはまさに郷倉と同じことが成されたということである。
その時いくら金があっても何にもならない、なぜなら金があっても物は買えないからである。その時はいくら金があっても貯えても何の用にもならなかったのである。

ただ昔と現代の相違は一二週間でも蓄えがあり耐えられれば物資は外から入ってくる
その二週間くらいが問題なのである。水も食糧もないとなると耐えられなくなる
長期的なものではなくその短い期間をいかに耐え忍ぶかにある。
現代の盲点は交通が断たれると致命的になるのである。
だからガソリンが入らなくて車が延々とガソリンを得るために並んでいたのである。
車も役にたたなかったのである。そして自分は二週間過ぎてくらいから相馬市に自転車で買い物できたので助かったのである。
タグ:郷倉
posted by 老鶯 at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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