秋の短歌(相馬市から家の近辺)
玄関に舞いて去りにき秋の蝶
十数個石を並べて秋の風
秋薔薇鹿島駅舎の古しかな
誰か見る路地裏行けば秋薔薇
秋の風ロードに走り鳥の影
城跡に秋の日ざし静なり二人よりにつ歩みけるかな
城跡に石垣残り秋の日のさして偲べる昔なるかな
相馬市に古本一冊買いにけり秋の日のはや没りて暮れにき
宇多川の水清らかに鮭上る実りの季や城跡たずぬ
相馬市の路地裏歩み病院に勤める人の家秋の日暮れめ
今日もまた一羽舞い去る秋の蝶街の通りの静かなるかな
我が庭にジョウビタキ来るかな季節の移り今日感じぬ
青々と野菜の葉広く畑かな秋の日さしてここに育ちぬ
留守にせし部屋に満ちにし百合の香や我が帰れるを花は待ちにき
木の下にあれば木の葉のゆくりなく一枚散りぬ誰か受けとむ
今日もまたこの道行きて一枚のこの葉散りてあわれ深まる
真澄みの空に
鳩の群れ飛び回る
朝日さしまばゆく
地に黄金の実り
そを刈りとる季かな
相馬市は城下町で碁盤の目のような道になる。細い路地が多い。
そこで相馬総合病院でみてもらった医者の人の家が偶然にあった。
それはまちがいないだろう。
別に病院があるのだから医者の家もある。その人たちも住んでいる
でも医者というと病院ではお医者様でありその土地で普通接していない、
開業医は別だけど病院勤めだとその土地に住んでいてもまた別である。
ただ医者でも病院にいるときだけしか見ないからここに家があったのだとなと
不思議に思ったのである。
医者でも相馬市内で生活しているのだから当然だけど何か現代は病院とか学校とか役所でもその人たちが土地の人というよりそういう施設や組織の人間とみる
それからたいだい会社の人間として見ている
江戸時代とかなると農業している人がほとんどでありそれは土地に根ざしている、里の人であり村の人なのである。
まさに土着している人たちである。だからどこの村に住んでいるかでその人を判断していたのである。病院に勤めている、学校に勤めている、会社に勤めている、役所に勤めているとか何かそういうことはなかった。
そんなこと当り前だとかいうけど意外とそれが江戸時代から明治に変わってきて起きたことなのである。
近くの畑に青々と野菜の葉が秋のひざしをうけて育つ、これもまたここに日差しをうけて育つということで売っている野菜とは違う、現代はこういう単純なことが実感できないのである。都会だったら田畑がないのだからまず野菜を育つ場を知らないのである。
田舎だとこの野菜を食べて自分も育まれ生きているんだなとなる
それは復興住宅を作る人たちを見ても感じたのである。
それを作っている現場を知らない、ただ物がどこからでも入ってくる時代である。
そういうことから何か今の社会は様々な問題が生まれる
原発だって東電の人がその土地に生活していた、その時田舎で暮らすことがどういうことか実感する、もし事故が起きてこの土地が放射能で汚されたらどうなるだろうなどと考えたかもしれない、それが東京で暮らしているとわからないのである。
季節は常に変わってゆく、なんか今年は暑くなったり寒くなったり体調を壊す
鮭も上りジョウビタキも来た、これは渡り鳥である。まだこの辺では白鳥は来ていない
猪苗代湖にはすでに来ている
稲穂が黄金色に実る、鳩が群れ飛んでいる、これも気持がいい平和な気分にひたされる
今年は実りがこの辺ではかなりあった。ただ飼料米になるというのもすっきりしないだろう。せっかく作ったものが飼料米ではその米自体が価値がないとみられるのでそうなる
それでも実りがないよりはいいとなる
前は松原があり松原に実りが映えていたのである。それが松は全部なくなってしまった。これもあまりにも大きな変化だったのである。風景そのものがなくなるなど想像もできなかったのである。もちろん村も消失したこともである。
ロードで走ると気分がいい、実りの平野を走る、すると鳥が一瞬飛びよぎる影を見る
まさにこの時自転車と鳥が一体となる、鳥のように走るとはならないが自転車は車と違うから自然と一体化するのである。
日々ゆく道には木の葉が散る、昨日も一枚散り今日も散った。その一枚一枚を感じるというときその木の葉は一人一人の人間のことともなる
なぜなら毎日人が相馬地方でも死んでいるからである。
するとその死んだ一人一人どうだったのだろう、どんな人生を送ったのだろうとか思うのである
鹿島駅舎は明治以来のもので古いという、立て替えられなかったのだろう
ただあのような駅舎は良くみかける、普通あれは駅舎であり変わったものとは思えないし古いものとも思わなかった。でも当時から建てられたまま変わらなかったものだとなる
そこに秋薔薇がにあうとなる、鉄道というとき駅舎にも愛着を感じる
鉄道というのはバスとかとは全然違う、何かそれか生活を作ってきたという感じになる
だから引き込み線があり縄屋とか近くにあり梱包するために使っていた。
自転車屋は駅前にあるのは汽車で電車で運ばれてきていたからである。
前には国鉄の官舎もあったからである。その時代も昔になったのである。
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