2016年10月15日

大学の劣化とエリートの劣化ー慶応大学レイプ事件 (それは明治維新から始まっていた)


大学の劣化とエリートの劣化ー慶応大学レイプ事件


(それは明治維新から始まっていた)


大学というとき大衆化したのは団塊の世代からである。でも自分の時代は地方だとクラスで4、5人しか大学に行っていない、中卒で集団就職の時代だったのである。クラスの三分の一くらいが中卒であり高校すら入れない時代だった。
団塊の世代はだから中卒が本当に多いのである。それが普通だとなる。
だから自分は相当に恵まれていたともなる、自分は高校に入るとき受験勉強してそれが何か後々に影響した。それは受験のための暗記だけの勉強だったからである。
本当に学問をしていないのである、そしてなぜそうなったのかというとしきりにその時人数が多いから高校にも入れないと大騒ぎだったのである。
そこからして出発点からして良くなかった。

受験戦争とか騒がれて仲間も蹴落としても上の学校にあがるということが強いられたのである。一方で集団就職と中卒の時代であり自分の入った大学は三流でありマンモス大学だった。それで講堂に3000人が入り授業したとかなると何か授業にも学問にも興味がなくなることがあった。大学は実際は遊びの場だったのである。文系では特にそうだった。
何か勉強をやる気にならなくなる場だった。

学生数10万人の日本一のマンモス大学となっており、いわゆるマスプロ教育を推し進めていた。これが日大闘争の発端となった。

学生運動の原因がこのマスフロ大学化したことにあった。戦前の大学生は真のエリートであり社会の指導的立場につくことか約束されていたのである。

旧制高校の卒業生数とほぼ同じだったので、卒業生は学科を選り好みしなければほとんど無試験で各地の帝大に進学できる特権がありました。従って受験勉強に青春時代を費やす必要が無く、有り余る時間とエネルギーを全て精神的・肉体的成長の為に注ぎ込む事ができました。旧制高校生は白線帽・高ゲタ・黒マント・手拭いの弊衣破帽スタイルに身を包んで街を闊歩し、「デカンショ」と略されたデカルト・カント・ショーペンハウヘルの必読哲学書を読んでは思索を深め議論を好み、酩酊し友と肩を組んでは各校に伝わる寮歌を高歌放吟し、

戦前の大学と戦後の大学、団塊の世代の大学生は全然違ったものになっていた。
ともかく受験勉強に追われる毎日でありそれで精神を消耗していたのである。
現代のエリートを作っているのはこうした東大生でも受験勉強した人たちであり何か人間的にモラル的に優れた人たちではない、そこにあるのは利の教育だけなのである。
出世して社会的な有力な地位を得て楽をするということしかない、それが社会を腐敗させてしまったのである。
それは福沢諭吉の学問をすれば立身出世するという思想が慶応大学が作られたのとにている。ただ戦前の大学は本当のエリートだからもう社会をリードする地位につくことが約束された人たちだから戦後の大学生とは全然違っていたのである。
要するに学問が出世き手段でしかなくなった。大企業でも官僚であれそうした得する地位につくことが目的となったのである。そうなればそもそもモラルなど何もないとなる

歴史をさかのぼれば実は明治維新になったとき日本人のモラルは喪失していたのである。江戸時代三百年で培われた日本人の文明文化が明治維新で喪失した。
その継続として現代がある。なぜなら江戸時代はモラルが高かった。侍はそのモラルの範を示すもきとしてあった。だから責任をとるというとき切腹までしていたのである。
それだけ上に立つものの責任を自覚していたのである。
それは江戸時代三百年で培われたものでありそれは地方の藩でも同じである。藩校がありそこで侍はただ学問だけではない、その土地で生活することでモラルが養成されたのである、地方地方にそれなりの教育があった。
それもまた明治維新で全く変更させられた。教育は中央集権の全国一律の教育になり標準語が採用されたことでもわかる、これも大きな変化であり日本を根本的に変えたのであるその時西欧文明はキリスト教だと内村鑑三が言ってキリスト教を採用しない日本文明は滅びるとか言った。つまり西欧文明を日本では技術を便利な機械とかを採用するものだとして受け入れたのである。
その最たるものが福沢諭吉であり功利的なものしかそこにはないのである。

そのことで最近明治維新が見直されというとき、江戸時代の侍のもっていたものが見直される、それは幕臣からなされている、内村鑑三も幕臣だったから薩摩長州の政府を批判していたのである。
侍とはなにかというとき高度なモラルを具現化した模範として社会は見ていたのである。それがエリートだったわけである。それが喪失したとき代わりとしてのモラルが日本にはなかった。それで今日の頽廃の原因となっていた。
戦前と戦後ではまたそのモラルにしても戦前はまだ日本的モラルが庶民でも義理人情とかがあった。今は全くモラルはない、もうければいい、金になればいい、得すればいいとかしかない、それはエリートであれ庶民であれ同じである。
カルト宗教もまったく肝心の要となるモラルはゼロである。経済原理に金をもうけて地位を得て得すればいいしかないのは同じなのである。

第一現代は民主主義でありエリート自体を否定している社会だからである。
真のエリートを養成するものがない社会なのである。たからエリートは現代ではない、庶民も江戸時代の侍のように尊敬したりしない、現代で偉いのは金をもっている人が一番偉いとしかなっていないのである。それは上から下まで同じなのである。
だから「金をくれ」と家にきて本当に家捜して大金を失った、そんな人が近くにいるしそれが普通の社会になったのである。
庶民でも貧乏でも事情があってもここまで庶民でも劣化しない、なにか義理人情とかまだあったが今はない索漠とした社会である。
だから大学生にしてもすでに団塊の世代から劣化していた、今は少子化で誰でも入れると余計にそうなる。団塊の世代から大学生は戦前の大学生とは間で違ったものになっていたのである。エリートといっても社会的有利な地位について自分は得する金持ちになる、それしか動機がなくなっているのである。
世界的にもグローバル経済になると経済原理が生きるプリシンパルになる。
そうなると金だけが唯一の価値になってしまうのである。グローバル経済にはモラルがないのである。多国籍企業でももうければいいということであり何か規制するモラルがないのである。それで後進国の貧乏な人たちをこき使うともなる。

最近起きている大学の異常なレイプ事件とかはやはりいくら東大であれ慶応であれエリートの自負もなにもなくった、モラルもないからである。それは歴史をさかのぼれば明治になったときから起きていたことなのである。
日本のモラルというとき戦争でも上官はだめで下士官は優秀だったというときそういう社会でもある。

19世紀英国の黄金時代当時は、よく言われる「ノブリス・オブリージュ」といった、英国紳士の社会全体に対する責任意識を説明する

これは江戸時代の侍に通じていたのである。それは300年の江戸時代で培われたものなのである。ヨーロッパでも貴族の歴史は長いからである。
結局人間は歴史的継続性が大事なのである、江戸時代300年で培われたものをすべて否定することが日本人を劣化させたのである。だから明治維新が今見直されるのである。
日本的ないいものをすべて否定するということが起きたからである。

いづれにしろ若いというとき自分でもそうだが何か必ず問題を起こす、そのありあまるエネルギーの捌け口を見いだすことで暴走が起きるのである。
それはくりかえされているのが人間である。
高校から大学へなると急に大人扱いになるけどそういう準備もない、何でも自分の自由にするというときその自由は危険なものとなる
自分でもそうだったが大学で起きているのは

小人閑居して不善をなす

まずこれは必ずあてはまる、大学を毎日マージャンで過ごして終わった人もいる、カルトにはまって終わる自分のようなものもいる、何かそうして無駄なエネルギーをぽ費やして青春が終わっているのである。
青春は誰でも何らかの狂気になってゆく時である。それはエネルギーが肉体的にも噴出するからとめられないとなるのだ。抑制がきかないからそうなるのである。
いつの時代でも青春は危険ととなりあわせである。
ただ人間は青春時代が大事だというとき何か青春時代で人生が決まるというときその方向が決まってしまうからである。青春時代に悪に染まったり利だけをもとめて真の求道をしないものはもう真理にも信仰もない、そういう人たちがエリートとなってモラルもないとしたら社会は今のように全体が上から下まで腐ってゆく

ただエリートエリートというけど社会がその養成ができないことが問題なのである。
大学は別にそうしたエリート養成の場でもない、やはり利を追求する場であり学閥などがあるのも利権集団としての大学がある、有名大学になるとそうなる
三流大学だとどうしても社会的に地位も得る人は少ないから学閥でも弱いのである。
慶応大学というとそういう学閥があり東大でもそうだが社会を支配するということがあるそれで警察も手を出せないとか議論されている、本当は権力をもつものには相当なモラルが必要になる。だから侍が責任をとり切腹までしたのはそのためである。
そういう責任感をもっている人は社会の指導者に官僚でも政治家でも企業でも大学でもどこでも今はないのである。カルト宗教団体とか何かそんなものしか今はないのである。
だから何かを誰かを模範にするということかない社会なのである。
ただ自助努力があるだけだから人格形成とかなると現代は一番むずかしいものとなる

尊敬するにしても先生だって今は尊敬しないし、政治家だって別に自分の力というより民衆に選挙で選ばれたものにすぎない、現代で尊敬されるのは科学者であり医者とかであるここだけはやはりみんな尊敬している、命にかかわこともあくから医者は一番尊敬されているのである。あとは尊敬する人など社会的にいない、金持ちだとしてもそんな人を尊敬しない、うらやむことがあっても尊敬などしないのである。
では医者がモラル的に優れているかというとそんなことはない、医者も金が優先されるからである。医は実際算術になっているからである。
エリートとといっても民主主義社会はみんな平等を目指しているのだから真のエリートなど養成できない社会なのである。地の塩というけどそういうものを否定したのが民主主義なのである。だから民主主義というのも何でもいいわけでもないのである。



タグ:慶応大学
posted by 天華 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/177266214
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック