途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?
宗谷本線
一つの駅
おりたちぬ
夏の日の思い出
数軒の家あり
立葵明るく咲き
一軒の家の庭
花々に囲まれぬ
かしこ我がしばし
一人遊びてあり
今にして遠い記憶
一つの駅またおりぬ
その辺り歩みて
牧舎に牛のいぬ
のっそりとして
そこは湿原や
菖蒲の咲きにき
一両の電車あわれ
夏の夕ぐれ
ただ遠き日の旅の思い出
その最果ての線路
一つの無人駅
おりたちて
いつ来るとてなし
電車を長々と待ちぬ
線路には恐ることなく
でんでん虫の一匹眠りぬ
その路線も消える時
まさにただ記憶とならむ
宗谷本線の存続がむずかしくなるらしい、稚内からは乗る人がまれである。ほとんど無人駅である。電車も一両だった。youtuneで延々と電車からの風景を写している
延々と森の中を走っている、家は本当に少ない、あんなに家がなかったのか?
人間は最後は記憶だけになる、記憶がそこにあったということを示すが例えそこにあっても記憶が消えたら存在しないと同じなのである。
ても旅でも今は騒がしいから忙しいから記憶に残らないのである。
すると旅したことにもならないしそこにあったということすらなかったともなるのである
自分は暇だったから一つの駅でおりてその辺をぶらぶらしていたのである。
電車は二時間くらい来なかったかもしれない、あの辺は無人駅が多い。
電車も一両だった。それだけ乗る人がいないというとき廃止になるのもやむをえないのかとなる、北海道の路線はすでに半分は消失した。これからも消失してゆく
ただ宗谷本線は違っていると思った、なぜなら急行が走っているし本州と最果ての地を結ぶ路線だと思っていたからだ。そういうことでなくなるとは思わなかった
ただ一両の電車がたまに走る路線だから日常的に地元の人が乗る人が本当に少なかったのである。
電車の旅はずいぶんした。北海道はずいぶんのった。でも電車の旅は意外と記憶に残らない、その車窓の風景でも早く過ぎて行くから記憶に残らない、ただ途中下車するとき何かそこが記憶に残っている、宗谷本線では途中下車して長い時間をいたから記憶に残っていたのである。
記憶は時間と関係しているのである。早く過ぎたりちょっと留まったりしただけでは記憶に残らない゛ともかくそこでは途中下車しても長い時間を過ごしていたのである。
それで記憶に残っていたのである。
現代の旅は何でも忙しくて早すぎて記憶に残らないのである。すると何か実際は時間の浪費しているのである。
効率的な時間で旅すること自体がかえって時間を浪費しているという逆説になる
なんか無駄な時間がかえって記憶に残りあとで宝となる
人間は老人になればわかる、体験したことが宝でありもう新しい体験ができないから体験した記憶が貴重なものとなる、人間の生きる時間は極めて限られたものなのである。
そこに人間の限界がある。老人になると新しいことを消化しにくくなる。
ただ今まで経験したことをふりかえりその意味を深化させるのに向いているのでてある。では旅した経験を書くというとき記憶に残っていなかったら書くこともできない
でも記憶に残ることはつくづく少ないと思う、とにかく人間ほど忘れやすいものはないのである。
自分の場合、介護だ自分の病気だ、津波だ、原発事故だとかあり十年がたちまち過ぎた、それで時間を消費してエネルギーも消耗した。旅する気力もなくなったともなる
そして新しいことを消化できないのである。
今まで経験したことを深化してゆくことしかない、だから老人は狭い範囲で生きてその場で意味を深めてゆくことに適している、新しい場で再出発することは向いていないのである。だから原発避難民でも老人は故郷に帰りたいとなるのである。
そこには生きた記憶の場所だからである。
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