2016年10月11日

原発はなぜやめられないのか(2) (人も死なないし被害を訴えることができない)


原発はなぜやめられないのか(2)


(人も死なないし被害を訴えることができない)


津波の被害は目に見えて何も訴えることもなくて一目瞭然だった。だから同情されたしそれに文句を言う人はいなかった。
ところが原発事故の被害は確かに大きかったのだが津波のように2万人近く死んだわけでもない、原発の作業員が8人くらい死んだとしても一般の人は死んでいないのである。
関連死で老人が何百人と死んだということもあるがそれも目立ったものとして現れていない、つまり被害のインパクトがないのである。

ヒロシマ,ナガサキの原爆だったらこれも一目瞭然である、あまりにもひどすぎるとなり訴えることができる、戦後70年でもその被害を訴えることができる
でも今回の福島の原発事故の被害がなんだったかというと故郷に住めなくなったとかの被害でありそれも外部の人には補償金をたんまりもらったのだから他に移り住めばいいじゃないかと被害が言っても訴えないのである。
むしろ毎日ギャンブルで遊んでいい身分になったなと見られている、それは地元でも原発避難者をそう見ている、そして被害者でも補償金でもめて争っている

ではなぜこういうことが起きたのかというと被害がはっきり見えないし訴えないのであるもしバタバタと人が死んだとか甲状腺の子供が目に見えて増えたとか奇形が生れたとか何かはっきりと目に見えていれば訴える、原発はひどいなと見てもう原発などやめるべきだと国民でもなる。
そうならないのは被害があったとしてもそれが内部でも外部でも訴えるものになっていないからである。
ガンになると言っても遺伝子が損傷するというのも深刻だとしても今のところそんな被害がでてこない、10年後20年だになるともうそれが原発事故のためなのかもわからなくなるつまり被害が目に見えてはっきりしないことが原発事故なんかたいしたことないじゃないか、かえって補償金でうはうはなんだよな、それは事故前も事故後も原発はかえって住民にとっていいものだったんだよとか言われる
それは被害が目に見えて悲惨なものになっていないからである。

その被害が目に見えて現れないことが実は内部でもただ補償金で争うだけのものになっている、もし原発事故で人がバタバタ死んだりしたら内部で被害者同士が争うなどありえない、みんなこんなふうにしたのは誰なんだとか、みんな命懸けでも訴えて戦うということがあった。ナガサキ、ヒロシマではそういうふうに被害が甚大だから世界にも訴えることができた。今でもそうできているのである。
被害でも外部に対して訴えるインパクトがないから外部からもなんだ被害って何なんだ、被害者は遊んで暮らしているじゃないか、原発で補償金もらってうはうはだなとか言われるのである

俺も被害者になって補償金もらいたいな

こんなことを言うことなどありえないことである。誰も戦争の被害者になりたくない、シリアの避難民などになりたくない、それは目に見えて被害が悲惨だからである。

ただ腹ただしいのは

福島県産の食べないとか食べて応援などはやめろ

東電の社員に食べさせろというのは賛成である。確かに一部は福島県産を食べさせた。

お前らも原発に国策として賛成したのだから福島県産を食べろ
共同責任を果たせ

となる。原発は国民全部で決めたことなのである。そしたら福島県産を食べるなとか言えるのか?原発事故の責任は国民全部にある。
つまり福島県産を食べて共同責任を果たせ、それが原発を作った国民の責任なのである。
福島県産を食べてガンになるのは嫌だとか遺伝子が損傷して子孫に影響するとか言うけどそれは原発を作った国民の共同責任なのである。
福島県だけの責任ではないのである。
地元でも魚の骨にストロチウムがたまるとか言われると食べるのを躊躇する、その魚は結局率先して漁業している人が食べるべきである。なぜなら漁業者が一番事故前も事故後も補償金で補償されていた特権階級だったからである。
それが当然の責任だったとなる、他の人も地元でも外部のものでも食べるのが責任だとなる、福島県産は食べるな、売るなというのは何か勝手なのである。
つまり原発をもつということはそういうことなのである。
嫌だというなら原発をやめるべきなのである。

なぜ原発がやめられないのか?それはアメリカの圧力もあったとしても国民がそれだけの覚悟をもてないのである。
ナガサキやヒロシマのようになれば覚悟する、核兵器は絶対もつべきではない、世界で持つべきではないと訴えることができる
ところが原発はそういう世界でも国内でも訴えるインパクトが被害から見えないのである確かに故郷に住めなくなったということは実際は大きな被害でも外部から見ても内部でも原発避難者は補償金もらっていいとくらいしか見ないのである。
それで南部でも団結できなかったのである。
もうバタバタ人が死ぬ、甲状腺ガンの子供あふれて、何か症状が目に見えて現れ苦しんでいる姿を見れば原発はやめるべきだとなる、それが今回はないから訴えるものがなく内部でももめて外部からあいつらは補償金もらって得しただけなんだよとかしかならなかったのである。

人間が外から見て同情するとき何か目に見えないと同情しないのである。それでインド辺りでは子供の手足を切って乞食させるとかまで言われる、それだと目に見えでかわいそうだとなるから施しを受けやすくなるからである。
原発事故は何かそうして目に見えて被害が悲惨なものとならないから結局内部ですら団結もできなかったのである。
もし被害が目に見えてバタバタは死んだとかなったら補償金がどうだこうだとか言っていられない、みんな団結して戦っていたことはまちがいないのである。
それは国民全部に言える、なんだ原発事故はたいしたことないじゃないか、一人も死んでいない、何が被害なんだとか見えてしまうのである。
その被害を実感するのには

福島県産のものを食べろ

それが被害を国民が実感することだったのである。こんなもの放射能に汚染されたもを食べさせるのか?
そうは言ってもそれが国民の原発をもった共同責任なのである。それで原発の被害を実感することなのである。

posted by 老鶯 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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