秋から冬-墓の短歌(故郷と啄木の函館の墓)
高平の五輪塔
ほとけっぽここに眠れる里の人月の繊くもいでて光りぬ
南北朝の謂れのありと五輪塔秋雨ぬれて北風の吹く
白波の寄せて寒しも啄木の墓ここにあり心さわぐも
そそりける立待岬の崖暗く啄木の墓冬にたずねぬ
放浪の啄木の墓函館に冬の海とぶ鴎にそあれ
函館に外人墓地や啄木の墓もたずねて冬の日暮れぬ
墓というときそこは死者を意識する場である、寺内のほとけっぽは杉の林に隠されてわからなかった。
そこは確かに埋葬場であり死者が埋まっていたのである。ただそれも時がたつとわからなくなる、そこに死者が埋まっているのもわからなくなる、一部は畑になっているからその下にも死者が埋まっているのかもしれない、何か不明の石くれの碑もあったからである。となると死者が埋まった土が畑になり野菜を育てているともなる
土の栄養にもなったのかともなる
現代では「里の人」という感覚が失われた。たいがい会社員であり会社の人になっている里の人というときその土地で暮らした人でありたいがい農業が中心になっていたろう。
だからこそその土地と一体となり里の人となっていたのである。
商業とか工業となるなとどうしても土に根ざすということにはならない、外部へと拡大してゆく、行商などで売りに歩くのもそうである。
現代は広域社会でありさらにグローバル化社会である。
この辺で震災や原発事故以後は外部の人であふれていた、日本全国からきているし今も来ている、そういう人は里の人ではないのである。たいがい会社に属しているから会社の人となってしまう。だから故郷と言っても今はその生活が広域的だからこだわらないという感覚になってしまう。
ただ今回発見したほとけっぽはそこに里の人が眠っている、埋まっているということを知って死者を意識したのである。それで月が細く光るというとき意識して光ったとかともなる
墓というときいろいろあるしそこからよみとれるものがある。高平の柳町の墓の五輪塔は南北朝に由来すると原町市の資料の本に出ていたから前に書いたけど再考が必要である。こういう本は資料でも基本的に知っていないとまずかった。
ここからいろいろわかることがあった。
墓で思い出すのは啄木の墓である。その場所が何か啄木にあっている、白波が寄せて立待岬へゆく所にある。
放浪の詩人となるが一家を引き連れて放浪するというのも普通はない、そうなると難民になる。啄木は一家を背負うことになり悲劇となったのである。
啄木は結構世俗とも交われる人だった、だから記者にもなった。
そのことが理解できない、啄木は自然に通じていたことが不思議なのである。
でも三文小説家のような所もあり小説も書いたのである。
いづれにしろ一五才くらいで自然に通じていたということが不思議なのである。
世俗に交わると自然というのは心に映えない、自然は清い心で接しないと写らないということがある。啄木は何かそうでもない、世間と交わり小説家にもなれるような人だったのである。天才となるとやはり普通の人は理解できないのである。
函館には何回も行ったから冬までも行った、なんか自分はただ三〇年間旅行していたのである。函館でも今でもなんかぶらぶら歩いている感じになるのだ。
青函連絡船の時代から行っていたのである。
今ふりかえると不思議に思う、要するにそれだけ暇だったということである。
今になると旅行することが億劫になる、なんか旅行には遊びのようでもそれなりのエネルギーが必要だった。
そのエネルギーは介護十年とかいろいろあってそこなわれた。
ともかく墓は死者を意識する場である。
啄木は函館で死にたかったというからあそこに墓がある。確かにあそこが何か啄木の一生にふさわしい場だったのである。
昨日は秋雨であり今日は一時北風が吹いた、何か今年は変則的て気候なのである。
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