秋の蝶(近辺の秋の短歌十首)
秋の蝶通りに一羽あわれかな
白と黄の菊さす壺に赤き花さして一段と映えにけるかな
真野川の岸辺に今日もちらほらと秋の蝶舞い暮れにけるかな
いつしかに母となりにしその女の落ち着き見ゆも秋の蝶舞ふ
雨しとと秋の蝶舞ふ女一人ここを歩みて去りにけるかな
街の中空家のありぬ誰住むと気にかかるかな秋の夕暮
たまさかに空家にもどる人みかく秋の白薔薇咲くを見ゆるも
我が家の墓そありなめここにしも眠る父姉母や今日も暮る
今なれば災いなきを石二つ庭に静まり秋となるかな
鹿島駅駅舎の古しと駅前の自転車屋語り秋となるかな
我が家も古りにけるかな我が一人もの書く夕べ秋の灯のともる
我が家に一人し住みて猫一匹我を待つかな秋の暮れにき
毎日ほとんど近く行ったり来たりしているだけである。それはすでに介護がはじまって十年はつづいている。
でも介護が終わり死んで楽になったなと思う、だいたい60年も一緒にいた家族がいなくなるということはどういうことなのかわからない、ただ介護は苦しかったから楽になった
毎日一人来る人はいる、何か淋しいということもそれほど感じない
妻を亡くしたよほど一人でいるのが淋しい゛答えるらしい、だから介護する人でもいた方がいいと言っていた。がらんとした大きな家にいるのが淋しいとなる
自分も一時は感じたがそれほど感じない、自分はもともと孤独でありそれほど一人でも淋しさを感じないのかもしれない。
それ以上に介護というのは楽じゃないとふりかえる
同じ場所を毎日通っていてもそれなりに季節が変わる感じるものがある。
今は秋の蝶がちらほらと飛んでいる、通りはほとんど人が通らない、だからその蝶も心に残るのである。都会ではこういうふうに感じることはないのである。
女性でも春の蝶から夏の蝶から秋の蝶、そして冬の蝶とまで変わってゆく
母となった女性は何か違う、落ち着いているので好感をもったりする
短歌は何か女性的な感覚、女性から見た感覚にいい歌がある。
それは何か男性的な感じ方ではないからである。
だから文学面では女性が活躍したのである。
空家が結構多い、街中の空家は売りに出しているものである。
あとは別に空家でも売りに出してはいない、最近は娘の所に移り住んだ人が死んで残された空家で葬式をしたがその家は別に売りに出していない
白い薔薇が咲いている空家はたまに人が来て掃除などしている
だからこういう家は持ち主がいないわけではないから荒れてはいないのである。
たまにきていて掃除などしていれば草茫々にはならないのである。
でもなんか空家に咲いている花というのも不思議だとなる
ともかく自分の家も50年近くたつ、今はこの大きな家にゆったりと住んでいる
自分はこれまで6畳の部屋にいたからこの家でも意外と狭い所に住んでいたなとふりかえる、やはり部屋は広い所がないと圧迫されるのである。
駅前の自転車屋が言っていたけど鹿島駅の駅舎は古い、最初建てられたときから変わっていないという、となると明治から変わっていない、あういう駅舎は今でも多い
とするとそれらは建て替えられない古いものだとなる
自転車屋が駅前にあったのは必ず貨物のため引き込み線が駅にあり荷物として自転車を受け取るに便利だったからである。
その当時車はまだそんなに利用されていなかったからである。車自体がないとういことがあった。それで長々と貨物列車が走っていたのである。
今日は昨日とは違い、涼しい、秋を感じたので短歌も作れた、やはり季節感がないと日本では狂ってくる、感覚的にもおかしくなるのである。
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