逆転の発想
(小高など避難区域の価値と利用方法ー暗いから月の光も映える)
小高だと夜は暗くて嫌だというのもわかる、女性は特にそうなるのかもしれない、小高は街でも郊外も人がほとんど住んでいないとすると一層暗くなっている
その闇は大正時代から江戸時代の闇の世界に帰ったのかもしれない、もともと田舎は夜は暗いし静かである、それが一段とさらに暗くなった
大正時代はランプである、でも今になるとランプに何かロマンチックなものを感じる
江戸時代は蝋燭である。会津の絵蝋燭などは知られていた
それだけ暗いということはその暗さと静けさも現代にはないものとして魅了する人があるかもしれない、これも不謹慎だとかなるが夜には小高など避難区域には行っていない
だから今度夜に行ってみようと思う、街のなかでもぽつりぽつりとしか灯がともっていない、回りはそれ以上に暗いから気持ち悪いともなる
でも大正時代であれ戦前であれ戦後十年でも家には裸電球一つしかない時代である。
今よりは相当に暗かったのである。
そこで蛍が飛んでいて蛍狩りなどしていた、蛍がいたということもすでに忘れられている蛍は暗ければ暗いほど光が幻想的に見える、そういう自然を失って来たのが日本だったのである。
何か過去に郷愁を覚えるというときそこには貧乏であっても過酷な生活であっても今にないものがあったということにある。蛍などは今では見れないからである。
ただ夜でも車のライトや電気の光でも満ちているからである。
本当の闇の世界は日本からは消えているのである。
ただ田舎には闇もあり静寂もありそこは都会とは違っていた
第一田舎がいいというとき都会にないものがあるのかというのも変なのである。
それは都会ではマイナスと考えるものが田舎の良さとしてあったのである。
闇の世界、静寂の世界、それが都会にはない、そこでは絶えず喧騒があり電気の光が消えることなく点滅している、そして神経もをいらだち心も病んでくる世界である。
都会では田舎にあるマイナスと思える闇の世界、静寂の世界がないのである
森もないし山もないから癒しとなる自然がないのである。
そもそも夜も眠らない街というがそんな所で人間の精神は安らがない、沖縄の青年が沖縄に30万月給をトヨタの派遣でもらっても沖縄に帰りたいというときそこに沖縄にしかない安らぎがあるからだろう、沖縄でも那覇は都会だけど海がいつも見えるから違っている
海はやはり静寂の世界であり海に囲まれているのは森とか山に囲まれているのとにているのである。ビルに囲まれて住んでいるのとは違うのである。
もちろんそんな避難区域に闇と静寂で人も住み人は少ない場で電気でも使えばそのインフラに金がかかるとかなるから馬鹿げているということも言える
それは詩人の馬鹿げた幻想であり現実はそんなことは通じないというのもそうである
何か自分はもともと大学四年間を東京で過ごして都会を嫌悪するようになったのである。30年間田舎で隠者のような生活をしてきたのも不思議だとなる。
ある意味で異常にも思える自分の性格でもそうなったともなる
山とか樹とか石を詩のテーマにすればそれは田舎の沈黙があってこそである。
ともかく江戸時代でも何か回想するときロマンチックにイメージするのが自分なのである最近は紙漉きをこの辺でもしていたということで紙漉きというものをイメージするときロマンチックなものとしてイメージする、実際はあまりにも過酷な労働だったとことにショックだった。
ただ山から清い水が流れてその水を利用して回りの樹を利用して紙を作るということが何か詩的なものとしてみる、工場で作るのとはあまりにも違うからである。
そういうことは過去になるとロマンチックに見えるのである。
過去というのは歴史をさかのぼることはできないから実際は絶対に経験できないのである空間だったら今でも地球の裏側にでもすぐに行けるが過去には旅できないからである。
でも一時ここが江戸時代に帰ったような状態になったのである。
原発事故で人がいなくなったり車が通らなくなったときそのことを一番感じたのである。車が通らないと本当に昔にもどる、これだけはまちがいない、車がひっきりなしに通っていることが現代の象徴であり車が通らないと昔に江戸時代のこともイメージできる
こんなにさらに静かだったのだなととか歩く他ないとかなる
ともかく人間というのは社会でもなんでもそうだけど必ずいい面と悪い面が生れる、科学技術だってすべてが良くは人間を幸せにしたわけではない、それが原発事故であり故郷にも住めなくなったのだから最悪だったのである。
それで家族一緒なら蝋燭で暮らしてもいいと大熊辺りの人が言っていたのである。
原発の恩恵も大きかったけどそれも最悪になったのである。
逆転の発想として小高では野馬追い武者を迎える火の祭りとかあったりとか何か暗い所でかえって映える、真っ暗な所で明かりが幻想的に映えるということもある
それも逆転の発想かもしれないのである。
人間の社会はすべてに何でも良くは働かないが悪くも働かないのである。
人間の幸福もわからないのである。いいと思えることがあとで悪いことだったり「人間万事塞翁が馬」である。これは辺境の国境ではありうることだった
この辺でもそういうことがいろいろあった、原発事故で得した人もいたのである。
多額の補償金を得てそう思っている人はいる、いろいろな人がいるからいちがいには言えないが悪いことばかりではなかったのである。
俺たちは被害者だとなり外からは常に同情されてきたからである。
普通は自分もそうだが苦しくても同情もされない、ボランティアの人が自分が苦しんでいる介護や病気で苦しんでいる自分を助けてもらいたいがそんなことは全くないからであるただ仮設とかにボランティアがいつも来ていたからである。
湯原王(ゆはらのおほきみ)の歌一首
月読(つくよみ)の光に来(き)ませあしひきの山経隔(きへな)りて遠(とほ)からなくに
小高辺りとかは郊外は一段と暗いからまさに・・月読(つくよみ)の光に来(き)ませ・・・となっているだろう、そんなの嫌だというけど月の光すら現代で電気の光に消されるだからそこで自然の神秘を感じるのである。
いづれにしろこの辺は何か他でも経済でも科学方面でも逆転の発想でいい方向に向かうこともありうる、ただ何か自分としてはソーラーパネルとかも自然破壊なので嫌だし
自然を喪失する田舎は田舎なのかとなるし詩的にイメージするとこの辺の状況は何かいいものではないのである
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