秋の長岩(八沢浦の長岩は松は消えたが残っている)
(人が住みその長岩と一体となる)
この時はまご松だ残っていた、今はない
八沢浦八景(長岩の晴嵐) 雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風
長岩の津波のあとにも残りつつ住む人あれや秋となるかな
長岩の松はなしかもなお残り住む人あれや秋の日暮れぬ
八沢浦湊部落の消えにけり誰か訪ねむ秋となるかな
八沢浦妙見の社あわれかな津波の後にその跡とどむ
海老の浜たたずみあわれ家もなし悲しむ人のなおありしかも
海老の浜津波に残る樹のあわれ痛々しくも傷痕とどむ
津波から五年半すぎたけどなおその傷跡は深い、ここで家族を失った人はやはりまたそうでなかったものとの差も大きいのである。
それは地元でもそうである。結局人間は人の悲しみとか苦しみを自ら経験しない限りわからないのである。自分も十年間苦しんできたけどほとんど他人はそのことをわからない
それはみんなもそうなのである。他人の苦しみにはいろいろありわからないのである。
あの人何苦しんでいるとなる、一人暮らしの人はあんたは家に介護する人でもいたんだから良かった、誰でもいた方がいいんだ,自分は誰もいないから不幸だという人もいる
介護したことがないからそう言っているのである。
他人の苦しみはいろいろあり他者からわかりにくいのである。
津波から5年半過ぎてもなおお悲しんでいるとしてもなかなかわかりにくいのである。
ただ時間が過ぎるとまた状況も変わってくる、八沢浦の長岩は八沢浦八景の歌として残っている、その岩は津波の後も残っている、ただ松は枯れてなくなった。
長岩の松として歌われていたその松は消えたのである。
おそらく右田の一本松も宣伝しているが枯れてしまうだろう。
海老の浜にはまだ津波にも残っている枯木が痛々しくある
右田浜は工事で変わり果てて家があったこともわからなくなる
海老浜はまだ家が多かったからここがその跡だということは近くの人は感じる
ともかく長岩が残りあの近くに人が住んでいた、あの辺は人の住めない地域だが人が住んでいた。畑がありそこに人がいた、暮らしがそこにあった。一部に実りももどった
でも津波が来た広い範囲にはなにもない原野である。
妙見の社があったがあれば明治維新後武士が入り祀った場所である。
明治行こう400人以上の武士が開墾に入った、中には北海道に移住した人もいた。
城勤めの人がそんなにいたのかとなる、ほとんどは郷士であり農民だったのが相馬藩だからである。ただ飯館村の飯樋(いいとい)には60人もの役人が塩を扱っていたからそれだけ役人が相馬藩でもいたのである。
いづれにしろ人間と風景とか自然と一体となっているのが田舎である。
自分はそこに一番魅力を感じてきたのである。都会では高層ビルとかと一体となるのか?
あんなもの見上げて生活して死ぬのは嫌だなとなる
つまり自然とアイディティテイ化することが本来の人間なのである。
だから長岩が江戸時代から知られていたというときそこに住む人もその岩と一体化するのである。長岩が津波の後にも残りここにまた暮らしがもどったなと感じるのである。
それはここだけではない、津波の被害にあった広い範囲でそういうことがあり原発避難区域でも起きているのである。
暮らしがまたもどればまたその自然も活きてくるのである。
普通はなにもなければそういうことは意外と意識しないのである。
津波とか原発事故は何か悲劇だったのだけど何か大事なものを意識させたことはあった。故郷など当たり前にあるのだけどそれも意識されてそのありがたさを知るとかなった。
そうなるとこの辺はやはり今までとは違う意識でこれから生きるということはありうる
故郷は大事なものなんだなという思いがここには受け継がれるということはありうる
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