2016年09月06日

なぜ学歴にそんなにこだわるのか? (プライドは認知症になっても消えない、人間の存在意義になるから)


なぜ学歴にそんなにこだわるのか?


(プライドは認知症になっても消えない、人間の存在意義になるから)

ニーチェは、「人間的な、あまりに人間的な」で、“病人への忠告”;『病人に忠告を与える者は、それが受け入れられようが、聞き捨てられようが、相手に対して一種の優越感を覚えるものだ

病人への忠告者は、病人を支配する優越感を楽しんでいる。忠告は言うなれば、婉曲な命令であり、人間にとってもっとも不愉快なことは、他人に支配されることだ。

福島市から来たボランティアの人のことを書いたけど福島高校出身で同窓会に行くと「お前は法政大学出だから恥だ」と言われると聞いた。
同世代くらいだとするとその頃第一大学に入るだけで相当恵まれていたはずである。
なぜなら団塊の世代となると中卒が半分であり集団就職の時代だったからである。
一クラスで大学に行けたの数人だった、自分は四人くらいだった。
自分は高校で授業についていけないし卒業もできないほどだった。でも三流でも大学に行けたのも不思議だとなる
今振り返ると自分は本当は相当に学問向きだったことがわかった。
ただ理系関係が苦手で学校嫌いと勉強嫌いになり大学でほとんど勉強していない。
結局自分はその後まともな職にもつかず遊んでいただけだとなる
ただどういうわけか二十代は相当に苦しんでいたのである。
それで30になるころもう相当に老け込んで老人に見えていたのである。
ただその後30代以降楽をした結果、体力も回復してこれまで生きてきた。
人間は何か苦労とか心労が重なるとふけこむ、60代の女性の人は苦労が多くて10歳は老けて見えるのである。
何かもの凄い津波とかでも苦労が心労が重なると一挙に白髪となり老け込むのが人間である。
これは別に苦労しなくても浦島太郎のように快楽にふけっいてもたちまちそれも消えて白髪の老人になっているのである
老人になるとそれが現実となりみんな愕然としているのである。

人間はなぜ学歴にこだわるのかというと人間はそもそもがプライドをもつことが人間の存在意義になっている、人と比べて自分が優秀だということを何であれ示したいのである。それが生きる意義である。それは体力でもそうでありスポーツ競技はまさにその優劣を競うものだし知的な分野でもあらゆる分野で他者と自分と比べて優れているということをプライドをもち競うのが人間なのである。
人間はどんな人もプライドももっている、もっていない人はいない、底辺で働く人でも掃除している人でもどんな人でもプライドはもっているのである。
そのプライドを傷つけられることが最も人を傷つけるのである。
金がなくてとか物質面で人と争うということがあるがプライドを傷つけられただけでも人を殺すということは普通にあるし戦争すら国と国のプライドの戦いなのである。
戦争に勝てば優越感をもてるし負ければ屈辱感をもつ
そしてプライドは認知症の人にも消えないのである。
そのことは福祉医療関係で書いてきた、実際に介護もしてきたので書いてきた
認知症の人はプライドを傷つけられると怒り暴力までになる
この人は馬鹿になったのだから馬鹿にされるけど家族に対しては自分はこの家で何々してきたとか盛んに言いそれが本当だから馬鹿だとは言えないのである。
人間は最後までプライドは消えないのである。ただ人一倍プライドが強い人はいる、自分の家族の一人は最後まで自分は優秀だと言って遺言のようにしてまで言って死んだ。
それはニーチエのように自分は超人だというプライドをもって狂人になったとにていたのである。
それまで人間はプライドをもつものである。

別に学歴だけではない、人間は何か他者と比べて優秀だということを示したいのである。80歳くらいの人なのか、自分に対してお前は年齢が低いから劣っているとあからさまに言うのにも驚いた。年齢で差別して優秀だとしている、でも80過ぎてから年齢など関係ないのである。老人の個々人を見ればその差は余りにも大きいのである。
老人になると今まで積み上げてきた生きてきたことが歴然と現れるからである。
ただ自分にしても自分より年齢が下になるとそういう傾向はある、でも60過ぎたら年齢は関係ないのである。
要するに学歴にこだわるというのは年齢にこだわるとか何か様々なもので差別して優越感にひたるものとして目安として機能しているのである。
社会に出てからは東大出も通用しないものは通用しない、だいたい仕事ができるかできないかで決まる、むしろ学歴ではない、職人だったら職人の腕がいいとかで評価は決まる
もし職人として腕がいいなら一流大学卒より上ということがある。
東大出でも仕事に使えないとしたら中卒より下とすらなるのが社会なのである。

大学出とかなると団塊の世代とか高度成長時代なら通用していた。まだ大学出が少ない時代だったからである。今や50パーセントとなるもう学歴は通用しない
会社でも一応目安にしても会社自体が昔と変わり終身雇用ではないとか学歴ではない会社で仕事できる人間を求めている、学歴を見ても仕事できるかどうかは決められない時代になっている。
もう一つはグローバル化して世界的競争になり日本が落ち目になっていることも影響している。何か特別優れた人、スキルをもつ人でないともう学歴だけでは通用しない時代に入っている。
だから文系になる何大学出たからなどでその人物を判断できないのである。


優越感をプライドをもつというとき奇妙なのだけど自分が病人になったとき自分に対して親戚の人は優越感をもって自分を奴隷のようにしようとしていたから悪質でありそれも人間の本性が現れたとなる、人間は弱いものに対して優越感をもつのである
それは病人だけではない、障害者でも知的障害者がいたとするとそんな人まで比べて優越感をもつのが人間なのである。
こいつはなんなのだ、人間じゃない、こんなやつが何でいるのだ、こんな奴は社会にいらない」
こうして知的障害者を介護していた人が19人も殺したというからなんなのだろうとなるがこれも相当に人間の屈折したプライドが関係していた。
お前らは人間の屑であり生きている資格もないとしたときそこに障害者に対して優越感をもっていることの故の犯罪だったのである。
お前らより俺は優秀だとなるがその若者は社会からの落ちこぼれでありそれがそんな屈折した感情をもって犯罪になった。

人間とは何か対してとにかくなんであれ優越感をもちたい

このことが強烈にあり消すことができないのである。それが人間の存在意義になるから消すことができないしそのために生きるともなる、何でもいい、今までは男女で女は劣っているとかなっていた。男女は能力で区別してもしょうがない、役割が違っているからである。
そして人間はだからこそ優越感をプライドももつとともに必ず劣等感をもっている
障害者を殺りくした犯人もやはり社会のおちこぼれであり劣等感をもっていて屈折した感情が犯罪になったともみれる。
ヒットラーなどでも画家になりたかったがなれなくて独裁者になったとか池田大作でも異常に学歴にこだわるのはやはり劣等感をもっていた。
麻原も目が見えないことで劣等感をもつとか劣等感が屈折して犯罪に結びつく

社会に対して恐ろしい牙を向きそういう人が権力をもつと自分のプライドを満たすために恐ろしいことして社会の大きな害悪となってゆく
そういう人が社会のトップに立ち権力をもつときそれに従わされる人々は奴隷にされるのである。
それは自分が弱者になってたとき病気になったとき責めてきて奴隷のようにしようとした奴と同じである。それが人間の本性なのである。
でも強者だったら権力者にはそういう人はへいこらしているだけである。
でもそれは権力に金があるとかで奴隷のようになっているというときそれもいつかは復讐される、権力をその人から奪って自分が上に立とうするからでありそのために人間社会には権力闘争が絶えないのである。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」
マルコによる福音書10章43節

これが実行できない、自分が一番偉いものとして仕えさせたいというのが人間の本性なのである。そのためにこの世はまたブラックになっているのだ。
この世がブラックだというとき外部の社会を見ているが実は内部の闇、人間のそうした本性が改善されない限りブラックでありつづける
人に仕えさせるために人は日夜努力しているからでてある。人の上に立ちたくて勉強もする、下にいて人に仕えるために勉強したり努力する人がいるのかとなる
有能な人であれば余計に知的に劣るとなると馬鹿にする、それが現実の社会なのである。
だから福島高校で驚きは40人も東北大学に入っているとか仙台二校では90人も東北大学に入っていることで驚く、そういうレベルになると法政大学では恥だというのもわかる
でもそういう同級生も傲慢だと思う、学歴で差をつけるのは傲慢である。
別に卒業したら学歴ではその人を判断できない、どう生きてきたかが問題になる
いづれにしろ社会では学問とかではなく多能な能力が必要でありとても学歴だけではどうにもならないのである。
学校は人間の多様な能力を開花させるにはあまりにも不十分なのである。
別に中卒だろうがなんだろうが一人一人を見ればそれなりにいいものをもっている
またそれは悪いものともなるが人間の能力は実際は多様すぎるのである。
だから介護とかでも介護士とかでもやさしさをもつ人が向いている、それも能力である。建築現場になるとやはり体力が必要となるとそれも能力でありコミニケーション能力に優れている人もいるし芸術に向いている人もいるとかあまりにも多様なのである。

その多様性があってこそ人間であり男女がいるときそれはたがいにたりないものを補いあうものとしてある。どっちが優秀だとか差別するべきではなく、それぞれの能力で補いあうとすればそんな優劣感は生れないのである。
インターネットでは普通の人も発言しているがそれなりに様々な発言があって面白いとなる、テレビとかマスコミとかだと一方的に専門家だけが発言しているから洗脳されやすいだから自分はインターネットの発言を利用しているのである。
ただ2ちゃんねるとかなると表面的で一回限りであり面白い発言していてもそれを深化できない、意味を深められないのである。
プログの方が意味ある発言している人が多いがなかなか発見するのがむずかしいのが難である






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