2016年08月26日

民主主義には言論や報道の自由が不可欠 (でも権力との癒着で成されていない)


民主主義には言論や報道の自由が不可欠


(でも権力との癒着で成されていない)


民主主義の基本として言論の自由とか報道の自由とかがある。でも実際はあるようでない第一報道するのにしても今までならマスコミに頼らざるをえない、そのマスコミでも自由な報道があるかといったらない、それができないのはマスコミは企業のスボンサーとか組織の金で運営しているからできない、組織というときカルト宗教団体が必ずかかわっている、週刊誌でもそうである。そこに宣伝されていれば宣伝費をもらっているからである。創価などは福島民報などでも聖教新聞をすっている、毎日新聞でもそうである。
そうなると巨大な組織に従うし逆らえない、だからマスコミに何か真実を暴くことなど期待できないのである。
そしてどうししても視聴率第一になるから視聴率で企業も金を出すから大衆路線になり芸能人路線になる。大衆向きの低俗化路線になる。
何か硬いものは人物でも拒否される、もちろん文化の育成などもない、大衆向きになれば視聴率第一になればどうしてもパンとサーカスになる。

言論の自由とか報道の自由というとき日本であるようでない、報道というときどうしても官僚であれ警察であれ情報を仕入れるにはそういう権力の組織とかかわる

本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ

記者クラブが仲良しクラブになり権力と癒着して権力の悪を暴くことはしなくなる。
ただ権力側の情報を権力側にとって都合のいい情報だけを報道するようになる
御用報道、御用学者とかになってゆく

情報が権力によって操作されるというときそれは社会に必ずあった。権力には権力で対抗する意外ない、権力をもっていれば情報も手に入れられる
地元で川で放射能や水質検査をしているが何をしているのか、どういうことなのかとか地元に住んでいて聞いてみてもあなたは誰ですかとなり答えないのである。ここの住民で心配だから聞いているのですと言っても聞かないのである。
このフリーの記者でも記者クラブに入っていないと追い出されたのである。
言論の自由などと言っても一個人は権力がないから相手にされないのである。

宮崎 新聞社は販売と広告で成り立っている。道新広告局に関するスキャンダルは、広告という命綱に手をかけられたようなものだ。道新の広告収入のうち、約1割の数十億円は怪しげな金だとも聞いている。年単位で契約している広告代理店からの金の流れが不透明だという話もある。

大谷 新聞社の販売局と広告局は伏魔殿だ。押し紙などで販売経費は不透明だし、広告においてもキックバックなどがある。ちゃんと身ぎれいにしておかないと、権力追及は難しい。警察は家宅捜索ができる。家宅捜索の令状なんて、今の裁判所は簡単に出す。日本シリーズの入場券をとるよりも簡単だ。

マスコミは権力を正すものではない、権力と癒着して甘い汁を吸う側になるのがマスコミである。ただそれはマスコミだけではない、みんなそうである。
権力はあまりにも大きな魅力でありそれゆえに人は権力を欲して権力側にとりこまれる
普通は人間は権力あるものに従う、つまり権力によって情報も操作されている
権力側につけばいろいろ利益を得るし便宜を計ってもらえる、だから官僚が警察でも天下り先に東電になっていた。
政治家でも官僚でも検察でも権力をもっている、権力をもっているから東電でも待遇する政治家に官僚に便宜を図ってもらえるから天下り先として待遇する
東京都知事の選挙で敗れた増田は東電の幹部だったのである。
東電があれほど大きな会社だと思わなかったし知らなかった。
これほどの賠償ができるということにも驚いた。国が半分しているにしろ東電が国なみの大きな会社だったのである。そこから莫大な金が生れるし引き出されるとなる
だから原発でもマスコミは追求しない、事故が起きたとき朝日新聞社の幹部までが中国に招待されていたのである。マスコミと阿部首相でも絶えず会食している、その報告がインターネットにのっている
阿部首相のことをあまりマスコミで批判しないのはそのためなのである。

民主主義は言論の自由とか報道の自由がないと成り立たない、情報開示するというのもそうである。そうでないと東京都のように一人の闇のドンが牛耳るとなる
東京都の税金はここでオリンピックであれ勝手に使われる、その悪を暴くのがマスコミだったが週刊誌が意外のマスコミは新聞でもテレビでも暴かなかったのである。
権力と権力は癒着して結びつきそこで互いに甘い汁を吸い税金を納める東京都民は怒り小池氏が当選したのである。
時代劇だと悪徳商人と役人が癒着して結びつく構図はわかりやすいがとにかく現代社会は複雑でありそうした悪はわかりにくいのである。

第一人間は一番利権とか利益には弱い、どんな人でも金には弱いのである。だから権力と癒着しないで独立して放送することは最高にむずかしい、テレビとか新聞とか雑誌とか本でも金がかかるから独立してやることはむずかしい。
インターネットはそれができるとしてもでは何か真実を追求できるかとなるとできない
それは放射能が気になるから県とか環境省の人に聞いてもあなたは誰ですかとなり教えないのである。それを聞き出す方法もないのである。

権力と権力は癒着して結びつくのは利益を得やすいからである。だから真実を追求するにはそうした権力にとりこまれないようにしなければならない、でも実際情報得るにしても権力がないと得られないから情報を得られないからできないとなる
こうして権力の分散のために三権分立ができたり独占禁止法ができたりした。
それは権力が一極集中すると独裁になってしまうからである。
巨大な権力は危険なものである。東電であれあれだけ巨大な会社だからこそ情報を操作できたのである。政府も一体となり癒着したからできた。
でもそれは民主主義には反したものでありその結果として原発事故の惨事が起きた。
情報が権力によって隠蔽され操作されるときそれはそのままではすまず戦争や大事故になってゆくことが怖いのである。

権力は悪魔的なところがあり人は悪魔に仕える、弁護士がいろいろなもめ事にかかわるがどうしても金になる方を選ぶ、金持ちが側に権力ある側につくと得するからそうなる
弁護士が何かブラックだというときそうした遺産相続とか大きな金にかかわるからであるそこで金のために悪魔に魂を売り渡す、自分も身内の交通事故で死んだとき賠償金でもめた。そして弁護士はほとんど何もしないのに百万を得たのである。
実際に働いたのは保険会社の人だったのである。何かわからなくて弁護士を頼んだのだが裁判にもなににもらない、何もしないのに百万を得た、そんなことが仲裁では起きてくるだから労せずして何かそうしたもめごとの時は金が入ってきたりする、それは弁護士でなくてもそういうことがある。なにか金ある家でもめたりすると誰かに漁夫の利のように金が入ったりするのである、それは自分が病気になり介護になり家がもめててんてこまいしたときそうだった。その混乱した中で大金はとられたりなくなった。
暴力団がそうしたもめ事にかかわり示談金とかで金を得るのとにている、会社でも何かもめごとがあったり弱みをもつとつけいられて金をとられるのである。

おそらく議員でも何か税金で莫大な金を使うからそこから巨利を得ることになる、権力をもっていると何かとうまみがあるとなる、だからこそ官僚は犯罪者であるとか言う人もいる。政治家とか官僚とか弁護士でも利権に利益にかかわるからそうなりやすい。
人間は金のためには血眼になるし犯罪も起きる、権力の魔力から逃れられないのである。だからカルト宗教団体でも創価でも共産主義でも中国のように幹部になれば巨利を得る、そういう立場になりたいと運動しているだけなのである。
そこに宗教とイデオロギーでカムフラージしているだけだとなる
本性は権力を得て上にたち支配したいということでは共通しているのである。
誰も権力の魔力から脱することはできない、要するに人の上に立ちたいものは仕える者になりなさいというけどキリストが言ったとしても現実の世の中は今もみんな人の上に立って支配して甘い汁を吸いたいとなっているからこの世に天国など実現しない
それはいくら宗教を装ってもイデオロギーで装ってもそうした人間の本性は変えられないのである。

いづれにしろ民主主義は一つの理想としてある。理想の追求である。その一つに報道は重要である。知らされなければ何もわからないからである
原発でも何か小さな事故があっても常に隠蔽されてきた、権力をもっているから隠蔽できる、政府と一体になり東電はそれができた、それが大事故につながったのである。
何かプログというものを10年くらいしてみるとこれも報道なのだと自分で思った。
マスコミは視聴者がけたはずれに多い、インターネットは非常に少ないにしてもやはり報道機関なのである。
だから報道するというとき知らせるというときそこに命までかかることにもなる
なぜなら不正を知り知らせることは権力者にとって都合が悪ければその人は殺されたりするかもしれない、権力をもつものは組織ならそれができる、実際権力は恐ろしいものである。時代劇でも役人が悪にかかわり口封じるするがそこに権力をもつものの恐ろしさがある。それは今でも同じなのである。検察でも警察でもそういうことはしているからである権力をもっていれば暴かれないからである。
だから社会というのはそうした悪の誘惑が多いのは権力をもつ立場にある人だとなる

そして人間社会がブラックだというとき権力の魔力にひかれているのが多数だからである
不思議なのは底辺で生きているものはそうした権力と無縁である。日々汗して働きかつかつの暮らしで生きている、不満も常にあるけど権力をもっているもののような悪に染まることはない、だから天国では卑い者は高くされるというのはそのためである。
高い地位に就いていたものは権力をもっている者は何かしら悪にかかわりやすい
でもいつもそうした権力のないものは給料が安いとかなんとか不満なのである。
誰でももっと金を得たいとなっている、カルト宗教団体もそのために毎日祈っているのである。そのためにあれだけの数がいるのである。
本当に宗教をシャカのように実践を強いられたりしたら数人しかとても耐えられないからである。本当の宗教を実践できる人間は数人しかいないとなるのだ。

ともかく報道の自由は実際はない、権力と癒着した報道であり大本営発表しかマスコミにはない、あとはパンとサーカスであり大衆操作のために芸能人が利用されるだけだとなるただそういうことしているとそのことで大きな災いが起きてくる。
戦争に導かれても報道されないとか原発でも中で何が起きているか危険があっても報道されないとかいろいろなことで必ず大衆にもその災いを受けるのである。


タグ:報道の自由
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