秀岳館にも一人も熊本県出身はいなかった
(高校野球の意義はスポーツは何のために?)
今の高校野球は地元代表ではない、秀岳館は熊本代表ではない、大阪から根こそぎひきぬいてチームを作った。地元とは全然関係ないチームなのである。
センバツ「秀岳館だけには優勝させるな」という雰囲気あった
東北の私立でも八戸光星とか青森山田とかは東北出身は一人もいないのである。
福島県の聖光学院は地元が二人くらいいるから違っているといってもそれが福島県の代表なのかとなる。
高校野球は地元の人が応援する、地元意識が強いことで成り立っていた。それで盛り上がっていた。
つまり福島県のチームが勝てば原発事故や震災の復興になるとか熊本だったら地震の被害からの復興になるとかなる
でも秀岳館は実際は地元出身ではない、第二の大阪代表だと言われる
地元の代表だったら地元の励ましになるが地元出身の生徒がいないということが変わってしまったのである。
福島県だったら聖光学院を応援するがでもあまり強く応援する気持ちにもなれない
なにかしらけた感じになるのである。
そもそも高校野球自体がこういうふうに地元出身の生徒が出て応援するとういものでもなくなっている、だから全国高校野球というのがどういう趣旨で行われているのか?
その趣旨に反したものである。野球好きな生徒がどこの県でも私立高校に入りそこで甲子園に出るために練習する、その地元とは別に関係ないのである。
今日秀岳館に勝った北海高校は二人くらい大阪出身だがほとんど北海道出身だった。
秀岳館はピッチャーが5人くらいいるのも強みである。北海高校はエース一人でがんばり勝った、秀岳館には勝ってもらいたくないという高校野球にかかわる人が言うのもわかる前に磐城高校が甲子園で決勝まで進出したときはほとんど磐城出身の高校生だった、もともとみんなそうだったが高校野球は甲子園に出たいという特別優れた生徒が全国から集まりチームを編成するのである。
別にスポーツはスボーツが好きな人がどこの県であれ世界であれば国であれ競うとなれば国にこだわることはない、現実に国がないからたまたたま近くにあった国とかから国籍をもらいオリンピックにでたとか国意識が希薄になっているのである。
スボーツはもともと身体能力だけを競うものでありあまり国籍とか県とか関係ないのである。
そして日本が400メートルリレーで銀メダルとったというとき100メートルの決勝に出た人がいないのに勝った、他は9秒台で決勝に出た人が多い、それでも日本が勝ったというとき世界で話題になった、それがなぜなのか?
それはバトンタッチのうまさである。そこを日本チームは相当に訓練していた。
そのバトンタッチが何か日本人的器用さが発揮されたのかもしれない
そのバトンタッチで差がついて勝敗にも影響するということが面白かった。
ただ速さだけではないバトンタッチが勝敗を分けるというときただ身体能力で競争していれば負けるがバトンタッチの技で勝つというのが面白かったのである。
ただ身体能力だけで勝負がつくとなると決まった人しか勝てないのである。
そこには一つの要素でしか勝てない、身体能力の強い人しか勝てないから勝つ人がたいがい黒人になっているのである。それはDNAでもともと優れているからいつも黒人が勝つとなる、それは国と関係なく陸上は黒人が強いのである。
何かすべて身体能力が強いものが勝つとなると面白くない、そうなら最初から競争しても勝敗がわかっているのだから無駄だとなる
柔道にしても小さい者が大きい者を投げたりすることができるものとして人気があった。また日本の武道は精神的要素が多い、精神の修行という要素が多い、だから日本ではスボーツでも道を究めるとなる、柔道、剣道とか道なのである。
ギリシャではじまったオリンピックの競技には何かそうしたものは精神的なものは欠けている、ただボリス同士が戦争ばかりしていたから休戦の意味でオリンピックが始まったというのに意義があった。それで平和の祭典になったのである。
柔道などにはそうした精神的なものがあり文化がある、ただ身体能力を競うものではないものがある。でも一般的にスポーツには文化的なものを感じない、スポーツという言葉が気晴らしだということでもそうである、ただスボーツで優れているということは身体能力で優れいてることは人間的に優れているということはある
特に昔だったらそういう身体能力で人間の優劣は決まる、機械がない時代だからそうなった。
ただ人間の身体能力の不思議は栄養豊かだからといって必ずしも備わるとは限らない
なぜ江戸時代の人とが粗食でも重労働にできたのか身体能力が高かったのか不思議である走るにしても人力車を引っ張るとか飛脚でもマラソンランナーのように走る能力がありそれは相当な重労働であり粗食でやれたのかとなる、でも実際は粗食である。
おにぎりとか沢庵とか味噌汁くらいがおかずで働いていたことの不思議である。
身体能力を考えると栄養をとらないから弱いともならない、今でもネパールなどでは素足で荷を背負い山を下り下りしている、その人たちは粗食なのである。あの高い山では栄養はとれないからである。
粗食というときローマ人も実際は普通の兵士は粗食だった、貴族化したとき贅沢になった日本兵は粗食であったがやはりそれでも戦争をする体力があった。
現代は栄養過多でありそれで身体能力が高まったというとそうはなっていない、とても昔のように歩いて旅するなどできない、今も車に乗っているとかデスクワークだから昔の人より体力がないのである。
つまり贅沢になれると人間は虚弱化して国自体も衰退してゆくという逆説がある。ローマがゲルマン人に滅ぼされたのもそのためである。
原発避難民なども贅沢であり文明人自体が贅沢になれているからあえてもう困難なこと、不便なことは嫌だとなり震災の災害地は復興できないともなっているのである。
なんか自分は今年の暑さでバテた、それで食欲もなく食べていないから相当にやせたと思ったら逆に太っていたのである。それがなぜかわからないがアイスを食べると太るとかジュースで太るとかなるとそういうものに相当な栄養があり太った
夏やせが普通なのだが夏に太る人が多いというときアイスでもジュース類でも相当に栄養があるためである。
そして糖尿病になる人が現代人に多いのは栄養の取りすぎの結果なのである。
なにか暑いと喉か乾き甘いものをとりすぎるのである。甘いものをとりすぎるとかえって疲れるというのもわかる、かえって水の方がいいとなる
自分はやせ型だから太るわけないのである。それが太ったということは甘いものをとりすぎたということなのか?それだけ今はいろいろなものを食べすぎるということなのだ
そしてかえって栄養をとりすぎて虚弱になっているというのも逆説である。
文明人はみんな共通して虚弱になっている、栄養とりすぎて虚弱になっているというのも逆説である。粗食で生活していたときがかえって身体能力があったというのも逆説なのである。
なぜ現代がスボーツの時代になっているかというとともかく文明人の生活が運動しないためである。だから運動することを求めてしないとできないからである。
別にスボーツジムに行かなくても日頃の生活が身体能力が必要ならそんなことをする必要ないのである。米俵でもかつぎあけるとか荷を運ぶにも日頃肉体労働していればそんなことをする必要はないからである。
オリンピックに出る人は超人的能力の持ち主であり普通の人とは関係ない世界である。
それは遊びと気晴らしの世界なのである。そんなものに金をかけるのは企業の宣伝とか国威高揚とかがありそれが世界で生活している人々とは直接的に何の関係もないのである。そういう気晴らしのスボーツに何兆円もかけること自体時代錯誤になっている
高校野球も勝つことだけが問題になり高校生野球のプロ集団同士の戦いとなり地元とか県の代表でもなくなっているのである。
だから福島県でも心から応援するという気になれない、ただ試合には勝たねばならないから勝つということに重点を置けば結果的には地元だけでは勝てないから全国から優秀な選手を抜擢して強いチームを作る他ない、でもそれは高校野球の趣旨には反しているから
秀岳館は負けてほしいとなったのである。
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