2016年08月14日

武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない


スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏がスポーツは意味がないけど意味があるとか言っているけどこれは納得できない、遊びであるから金をかけるのは経済効果を言うのは無意味なのもとしてやるのだからかえって逆効果だというのは同感である。
たかがスボーツというときそこに莫大な金がかかっていることが問題なのである。
たかがスポーツなら草野球のようなものでもいいわけである。
何兆円も金がかかるオリンピックがたかがスボーツですまされないのである。
なんらか意味があるものとして追求されねばならない

それだけの金がかけるなら東北復興に金を使えばほかにもいくらでも使う所があるからだ
他のことは科学者としてその言い分はわかるがこれは根本的に理にあわない
理系というとき文系がおとしめられるが何かあらゆることに通じるわけではない
意味のないものに莫大な金を費やすからこそ問題がある
金を使わないなら草野球みたいなものなら別に問題なのである。
高校野球だってセミプロであり地元とは関係ない選手が集まりしているから地域の代表でもないのである。金もかかっているのでありたがらこそ勝つことが第一になるのである。純粋のたかがスボーツならいいがそうでないから問題なのである。

ともかくインターネットではなかなか議論が直接的にされない
自分もそうだがプログは一方的発言になってしまう。
こうして発言しても相手が読むとも限らない
パソコン通信の時代は逆にあまりにも相手をおとしめるための直接相手を攻撃するためのものだった。
プログになるとなんかそうした攻撃もない、だから一方的な発言となりそれで議論が深められることはない、プログはそうなりやすいのである。
自分だってずっーと膨大なものを一方的に発言しているだけだからである。
「心に青雲」なども内容が濃いのだけど同じである。一方的発言を延々としているとなるそうなるとなかなか議論を深めることができないのである。
その人の発言はその人の発言として終わりになる。

ただこうした内容の濃い人のプログを批判するとなると相当な人でないとできない
科学に弱い自分はまず科学について批判できない
ただ文系になると心の青雲の「国家論」とかなにかそこから議論を深めるものがあるかもしれない、それだって相当な知識が必要であり簡単にできない
第一マルクスとかでもそれを批判するとなればそれを深く理解しなければできない
そうなると批判自体が不可能だとなるのである。

ただ今回武田邦彦氏の言っていることは浅薄だからできたことである。
ほかはなかなかできない、専門的になると余計にできない
現代は専門家の時代であり素人は批判などできない
人間と意味がないことに国家予算なみのものを使うことはまちがっている
なぜなら人間はなんであれ意味を追求しているのである。

スポーツは気晴らしの意味があるときそれも意味だがそうならそんなに国家として金を使うべきではない
ローマの「パンとサーカス」になってしまう。現実になっている。
日本雑技団とか言う人もいて面白い、まさにサーカスなのである。体操などがそうであるそういうものにオリンピックとなると国の誇りだとなるのも納得しえないのである。
それは日本だけでない中国雑技団にもなる。そんな程度のものとしたらなぜ莫大な金をかけるのか?プラジルでは貧困にあえでいる人があふれている
その人たちにとってオリンピックなど何の関係もないのである。
現実にメダルもとれないのだから面白くないとなってしまう。

ただもし意味があるとしたら逆に株価が上がるとしたら経済効果として意味があるとなる武田邦彦氏は経済的効果をスポーツには必要ではないというがむしろ必要だからこそ意味があるとなる、なぜならそうしたらそんなに金をかける意味があるのかとなるからだ。
なぜそんなに金を使うのかということが問題になっているからである。




posted by 天華 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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