2016年08月08日

オリンピックは必要なのか? (巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


オリンピックは必要なのか?


(巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


リオオリンピックの柔道を見ていた。そこで不思議だったのはオリンピックにはどこかの国に所属していないと出れない、それで小さな国の国籍を借りてというか出ていた人がいたのである。世界にはそういう事情の人もいる。一時的にそうなっていたかである。
オリンピックは今なんのためにやるのか明確ではない、参加することに意義があるなど思って参加している国も人もいない、メダルとるためにしかありえないのが現実である。
そして国威高揚のためにある。その国威高揚に一番効果あるのが国家が金メダルと演奏されることである。水泳で金メダルとったから君が代が演奏された。その時は日本人の誇りというか日本国への愛国心が湧いてくる、なかなか今はグローバル化しても日本国を感じる場面がない、戦前は絶えず日本国が過剰に意識されていた。
それが敗戦になったらその逆になってしまった。日本の国を意識させないようにしているのである。だから愛国心をもたない国にもなっている。
オリンピックが平和の祭典というのも違う。オリンピックしても世界はやはり紛争があり戦争がありテロがあり解決しない、オリンピックは平和とはほとんど関係ない、ただのスポーツの祭典なのである。
そしてここでも利益を得るためのものとしてオリンピックが腐敗したので

この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。買収を行ったものと応じたものは以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられた。

東京オリンピックの誘致にすでに200億円かかったとか莫大な金にふくらむことで東京都知事選挙の争点にもなった。
そんなに金をかけてオリンピックをする意義があるのか?そういう疑問である。
前の東京オリンピックとはまた事情が違ってきたからである。
あの時は高度成長時代であり日本が世界の経済大国となってゆく時でありオリンピックはその国威高揚としてふさわしかったのである。
それからオリンピックは世界で継続されたが果たして本当にオリンピックは今や必要なのかという疑問がある。
オリンピックは公共事業としてテレビの電通の利権としてフランスで取り上げられたように巨額の金が流れるのである。企業の宣伝としても選手もでている。
純粋な心体技を競うスポーツの祭典ではない、国威をかけた巨大な利権の場と化しているのである。
勝つために何でもするようになる、ロシアの国ぐるみのドーピング問題でもそうである。それはギリシャのオリンピックでもそうなって腐敗していたらである。

●国威高揚

●心体技の競争

●スポーツを通じての世界の友好

オリンピックは国威高揚は欠かせない、でも本来スポーツは別に国とそんなに関係しなくてもありえる。世界選手権になるとそんなに国とは関係しない。
スポーツ分野ごとにその技を競っているのである。アーチェリーだったらアーチェリーの技を競う、メンタル的なものだというときそういう精神面でも競っている。
見る方にするとそれを見ればあまり見れないからそういうスポーツもあると啓蒙されることは確かである。
高校野球でも福島県の聖光学園は有名だけど全国から野球好きな高校生を集めて勝っている、地元の高校生は一人か二人なのか?ほとんどいないというし東北では関西とかから来た甲子園に出たいと入った私立高校が強いから地元とは関係ないのである。
地元の代表ではないということはオリンピックで国の代表でないと同じなのである。
ただ野球好きなうまい人を集めているだけなのである。

スポーツにはそれぞれスポーツが目的とするものがある。柔道などは日本から生れたら日本の文化であり柔道を通じて心体技を磨くもの鍛練するものである。
それは「心の青雲」で常に説いていることだからプログを読めばわかりやすい、精神の鍛練として空手をしているのでありただ勝負事としてしているわけではないと言っている。人間は何をするにも精神性がなければ動物に陥る、スポーツにも文化的要素が必ずある。日本から生れた相撲でも武道でも文化的要素がある。
ただプロレスとかには何か体を筋肉だけをぶつけるもので精神性を感じないのである。

「心体技の競争」の競争なら別にオリンピックのような過剰な国威高揚はいらない、世界選手権でいいのである。オリンピックで世界の平和をになうというのも今は消えている
オリンピックしたからといって世界が平和になるということもない、これだけ世界の人々がまじりあうグローバル化社会では世界の人を集めることも必要ない
日常的に世界の人が混じり合う世界だからである。
残るのは別に国に関係なく人間としての心体技の競争である。
ある国がメダル何個とったとか異常にこだわるのも変なのである。国と国が競争するのではなく個々人が心と技を鍛練して戦うとなればオリンピックは必要ないのである。
オリンピックはかえってグローバル化社会では巨大な利権化してその本来の目的とは違ったものとなっている。

柔道を見ていても選手には悲壮感が漂っていた。どうしても勝たねばならないというフレッシャーを受けているからである。日本国のために勝たねばならないとしたらそうなる
でも世界の人々が国に関係なく心体技の競争というならそうはならないのである。
何かオリンピックは国と国の戦争なのである。勝ち負けに異常にこだわるのもそのためである。国と国が争い勝てば戦争のときのように喜び負けるとがっかりする。
勝てば日本人は優秀だとかなる、柔道でも今や何か知らない小さな国の人が参戦しているそれは競技人口が増えたからであり柔道が普及したからであり柔道は柔道でその心体技を競いばいいとなる
今やオリンピックの理念自体が当初のとは違ったものとなっている、時代に合わないものとなっている。だから改めるべきであり必要ないとまで世論的になる
日本だってオリンピックに興味がない人が50パーセンと多い、オリンピックに興味をもつものは推進させるのはその利権にかかわるものである。政治家でありゼネコンでありテレビでありそれらに主導されてオリンピックが推進させられる
国民としたらもっとほかのものに東北復興の方に持続的回すとか他の国民が要望するものに使うということである。国民が本当にオリンピックを望んでいるのかわからないからである。それが前の東京オリンピックとの大きな相違である。
前の東京オリンピックは国民みんなが望んだものだったからである。

posted by 老鶯 at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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