野馬追いの旗取りが終わり夕べ虹がかかった
(南相馬市は合併して十年過ぎていた)
クリック拡大
帰り馬夕燕飛び虹かかる
雲雀が原旗とり終えて帰る馬そのあとかかる夕べの虹かも
南相馬市も合併して十年すぎにしや原町鹿島虹かかる夕べ
交わりて争いつつも過ぎにける時間にあるかな歴史を刻む
野馬追いの帰り馬というのは雲雀が原から神旗争奪戦で旗をとり帰る馬である。
それは三時ころだった
次ぎにこの虹を見たのは虹がかかると予想した
この辺では夕方にかかりやすい、東が曇っていて太陽が沈むころ虹がかかる
何回もそうして虹がかかるのを経験しているから予見した。
虹がかかるなと天候を見たら虹が最初はかかっていなかったがしばらくしてかかったのである。天候はやはり経験でわかるのである。
天候はある程度確かに予測できるのである。
ただ地震だけはできないのである。
今日一日は最初は雨がふっているので雲雀が原に行く気がしなかったけどフログにのせるために何か種になるものかないかとロードで急いで行った
行列は半分終わっていたが会津の日新館の車があったことは収穫だった
そのあとに虹をとった、こうしてフログというのはともかく今起きたことをのせる
すると一日追われるのである。
今日は特に野馬追いがあったので追われた
そうでなくてもプログが今あったことを即座にのせる、報告する
それが醍醐味なのである。
だから読む人もその日の内に読むと臨場感が伝わるのである。
つまり生放送に近いのである。
だからプログに出すということは結構時間であり手間なのである。
本当に読ませるものとなるとかかりきりになるのである。
2006年(平成18年)1月1日:原町市および相馬郡小高町・鹿島町が合併し、南相馬市が誕生
南相馬市が小高、原町と鹿島と合併して十年が過ぎていた。ある意味で記念すべき年だったのか?
それでもなんか津波、原発事故のあとは補償金問題とかでかえって逆にそれぞれの前の町に分断された、特に小高と鹿島の確執は補償金問題で仮設を出てもしこりを残した。
小高には小高の言い分があるし鹿島には鹿島の言い分があるが市長でもその間を取り持つことができなかった。
福祉関係でも良いから補償金を平等にすべきだったのである。
ただ小高の人も何が迷惑なのとか何で鹿島の人が文句言っているの、不満なのということがあるのも相当無神経なことである。
しかたがなかったにしろ福祉関係でも迷惑がかかわっていた人もいたのである。
小高の人だけの問題ではないが自分が病気で苦しんでいるとき
避難して仮設に入りあとはパチンコ屋に何もすることなくおしかけていたのである。
その時自分の所に来た親戚の人はパチンコ屋に働いていた。
それは遊びであり自分は苦しんでいたのである。
それは小高の人の問題とは言えないかもしれないが何でそんなことをしているのだ
どっちにも怒りがあった。でも弱い立場だから何も言えなかったのである。
小高の人に今でも不満をいだき怒っている人もいる。
その人は弱い立場に前からあったから余計にしゃくにさわったのである。
小高の人に馬鹿にされたとか怒っていたのである。
ともかく合併したのはいいが心は分断されてしまったのが残念だった
ただ今日は雲雀が原で神旗争奪戦があり夕べ真野川に原町から鹿島にかけて虹がかかったそして合併して十年過ぎたのかという感懐があった。十年一昔というからである。
なかなか合併して実質的に合塀するということは歳月がかかるのである。
自分も介護始めてから十年すぎた、これも長かったなとつくづく思う
ただ十年くらい介護している人はめずらしくない、それだけ介護は長いことが問題なのである。自分もそしてたちまち年とってしまった。
争うとしてもこれもまた融和するためにも必要だということもある。
良く村同士で綱引きなどがあるがあれも村同士で争っていたのである。
でも時間がたってそれが祭りとてし残ったのである。
人間は例え争っても長い時間を過ごすとそれが愛に変わったりする
争うことが憎むことが愛だったとまでなる。
人生とは最後にどんな感懐を抱くのか?
これも二人の家族が死んでつくづくわからない不思議だと思った。
家族は争っても長い時間を過ごすから例え憎み合ってもそれが愛だったということすらあるのである。
これを合併した南相馬市にあてはめることは別問題かもしれないがやはり何でも時間がかかりそれが歴史となってゆく
時間をかけなければ何でも融和してゆかないのである。