相馬野馬追い
(北郷(鹿島区)で総大将お迎え)
北郷の本陣
槍が立って囲んでいる
総大将相馬藩の殿様の到着(クリック拡大)
この杉の木の紋様は只野氏のものである。
野馬追いやかぼちゃの花に郷士かな
野馬追いや土着の郷士藪甘草
海老原氏が福大将でありその家で一時宇多郷(相馬市)が待ち北郷と合流して
総大将をお迎えする、それが毎年決まりきった祭の手順である。
総大将が北郷の本陣に来たとき最高に盛り上がる。
相馬野馬追いは実際に歴史的あったことの忠実な再現なのである。
そして外からみて相馬野馬追いは誰でも参加できるようでできない祭である
野馬追いに出る家は代々決まっているからである。
先祖が相馬の郷士の出であることである。
その家に兜とか旗とか残されているからである。旗印もかってにつくることはできない。
郷士(ごうし)というのにもいろいろあった
薩摩藩では人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。
これは郷士といえば普通は農業しているが職人していた人も郷士がいたのである。
侍というだけで食べていけた人はそんなに多くなかったということがある。
郷士(ごうし)という名前自体がその体を現しているのか、郷土に土着して生きる侍ともなるのか?相馬藩では郷士が多い、それは農業していた農民である。
だから例えば鹿島区の街内から出るのは一騎だけである。
野馬追いは農家からでるから相馬市の城のあった所でもほとんど野馬追いに出る家はないのである。
例えば原町となると街自体が大きいけど原町村となっていて一軒しか野馬追いにでていないのである。外から見るとそこが誤解しやすいだろう。ただ鹿島区に原発事故で移住して家を建てた人がいてその人は小高の農家の人なのだろう
旗が立っていたからわかった。もともと街内からは一騎しかでない、他にも移り住んだ人が小高の人がでているのだろう。
それが変化したことである。
野馬追いは戦国時代の再現だけどここでいかに総大将が中心であり総大将によって全体の指揮があがりもりがある。いかに総大将が藩主が君主が大きな役割を果たしていたか具体的にわかる。
こういう世界は民主主義とか平等の世界になると理解できなくなった。
ただ日本では天皇がいて一番偉いものとして日本の中心にありまさに政(まつりごと)を継続しているのである。天皇が総大将の役割を果たしているのである。
人間社会はなかなかそういう総大将とか上に立つものがいてそれをみんなで盛り上げなければまとまらないのである。
民主主義になればみんな上に立つ者をおとしめることしかない、なにあいつらは偉そうにしているけど俺たちの一票によって選ばれたものにすぎないと思っているからである。
ただ天皇だけはそうではないことが日本の長い歴史でそうなったのである。
天皇が問題にしてもそうして神輿としてもかつぎあげるものがないと民衆だってまとまらなくなるだころう。
ともかく総大将の殿様を中心にして行列がありお迎えすることがまさに祭りなのである。
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