末続駅の末続も渡来人の跡か?
(地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)
ツノガアラシトは金官伽耶の王子、日本に3年ほどいた後に朝鮮に帰り、再び日本列島に帰ってきたという人物
半島東南端の加耶諸国だけはそのまま勢力を保っていた。そして、その中心あたりに「大加耶」「小加耶」あるいは「金官国」(クムグァン)があったのである。
「任那の日本府」の経営も試みられた。考古学的には須恵器(すえき)が倭に入っている時期になる。
いまのところ、加耶の実在を示す最も古い史料は高句麗の広開土王碑である。その記事の中に「任那加羅」という言葉が出てくる。年号では400年ちょうどになる。この任那加羅が金官国の別名だった。
『三国史記』では加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛などと、『三国遺事』では主に加耶と、ほかに駕洛と記される。『日本書紀』では加羅が多く、『続日本起』では賀羅とも綴る。中国の『梁書』はもっぱら伽羅で、『隋書』では迦羅である。日本読みではこれらはすべてカヤか、カラになる。朝鮮語読みでは“karak”に近い。
そこで倭国の王は千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に遣わして、新羅の罪を攻め、さらに369年に荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とした軍を百済の久氐(くてい)らの使者とともに卓淳国におくりこんだ。けれども兵力が少なかったため新羅を襲えない。そこで、百済に援軍を求めた。百済は木羅斤資(もらくこんし)らを出陣させ、みんなで卓淳に集結して新羅を蹴散らすと、さらには洛東江流域の、南加羅・安羅・多羅・卓淳・加羅など7国を平定したというのだ。
いわゆる「加羅七国平定記事」である。このうちの南加羅が金官国にあたっていると思われる。
ツヌガアラシトに対して、崇神天皇が自分の名前を与え、「汝の本国の名を改めて、ミマナ(任那)とせよ」と言ったという記事が 『日本書紀』 にある。このことに関して、それは逆であって、ミマキ入彦は、もともと任那すなわち朝鮮南部の王であったが、倭国に進出して国を開いたので、祖国の「ミマナの城から入って来た」という意味で「ミマキ入彦」と称したのだ、とする意見もある。
棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某(700)のこの月この日に海中より出現したという、
豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・
津(ツノ) 神社
(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内
(北標葉郷)棚塩
なぜ末続駅の名が気になっていた。人間は何か理由がわからないといつまでもこだわるのである。病気でも説明されて原因がわかると安心する。
地名でもなにかわからないといつまでもなんなのだろうとこだわりそれがいつまでも解けないとなんとか理由を探そうとする。
第一地名は本当はいろいろな解釈がありその由来が不明なのが多いから無理な面がある。地名から歴史を解明することはできないのである。地名にこだわると歴史を見誤ることがあるから危険である。
ただ末続という地名は出雲の須衛都久神社から発していることは明確である。
ではこれは何に由来するのか、イザナミとかなると渡来人関係ではない
でも須衛都久とはすえつくのすえは須江であり陶なのである。
つまりスエとつく地名は須恵器に由来していてその技術者でありそれは渡来人なのであるスエツクのツクとは継ぐになるから須恵器を代々作り継ぐ人たちとなる。
ただここで疑問なのはそんなに末続がそんなに古いものなのか?
なぜそれが地名化したのか?最初に地名化したのは古代にさかのぼる
末続が新妻一族の村だったということでそこに住んでいる人からもコメントをもらった。新妻氏というときそれは地名化していない、江戸時代に地名化することはあまりない
地名というのも古代にさかのぼり古いものなのである。
ただ姓の元をたどれば日本では必ず村がある。千葉県に新妻村があるからそこから新妻一族が生まれたのである。
浮田とあれば浮田国造とかこれも古代にさかのぼる。真野でも真野郷がすでに平安期文献『和名類聚抄』に記載されている。
この鏡は天の日矛が持ち込んだ日鏡D鏡は八咫の鏡E鏡は神功皇后がヤマトの奇襲攻撃の為日田に隠した。その後、出雲の神宝である鉄鏡を必死で探したヤマトは出雲(日田)を崩壊させてしまい日田の住人は出雲大神を祀る事を禁止された、しかしその後、出雲の祟りで口を聞けない王子が聞けるようになる記述も日田での出来事であり、出雲(島根)ではない出雲国造の祖「岐比佐都美(別名)来日田維穂命」(きひさつみ)こそ日田の久(比佐)津媛である。岐=八衢・比佐=日田・都=地・美=木花之佐久夜毘売・髪長媛
毘売は夜(一夜で身籠もる=武内宿禰・蛇=大物主神=神功皇后の意)久佐(ひさ)の花の木(綺麗)の意
久之浜末続は一連のものとしてある。ヒサとヒサツヒメであり鉄と関係している、渡来人が浜通りに砂鉄を求めて鉄作りをした。その跡が点々と残っている。
浪江の津明神の伝説が大宝であり七〇〇年であり古いのである。
すでにその頃から鉄を求めて来た渡来人がいた。その人たちが地名を残した
それはツノガノアラシト系統の渡来人だったのである。
だから津(つの)であり津神社はつのみやとかツノとついているのである。ツと一字では読まない
それは古代史にさかのぼると日本と韓国の深い交流があったからである。
日本の建国がどうして行われたか、天皇がどこから生まれたのか不明である。
それは加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛と深くかかわっていたのである。
カラというとき伽耶でもあり間違いやすい、唐をあてると中国のように誤解する、唐の時代より前の時代であり唐とは関係ないのである。
鹿島区にある唐神という地名はカヤに由来しているのである。伽耶の神なのである。
またツヌガノアラシトというときアラは安羅であり伽耶国にその地名があった。
荒という姓がなぜ相馬に多いかというと何かそういう由来があるのかとなる
だから浜通りに点々とある渡来系の地名は鉄を生産することと関係していた。鉄を生産する技術者が伽耶国からわたってきたのである。
鉄の生産と須恵器は関係している、
須恵器は古墳時代に朝鮮半島の技術を取り入れてつくられた、硬質の焼き物です。陶器と磁器の中間的な性質を持っています。「備前焼」や「信楽焼」などと同じ「せっ器」に分類されます
須恵器は朝鮮半島の南端伽耶と日本で呼んでいた地域にのみ見られる土器で中国から伝わったとされてますが果たして何所が起源なのかわかってません。
須恵器を作る技術は伽耶国からもたらされたことは大事である。
そしてこれまで何度も書いてきた。
陸奥の真野の草原のように遠いけれど私にはあなたの面影が見えるというのに…笠女郎(かさのいらつめ)
この草原(カヤハラ)は伽耶国のことだったのである。真野郷内に唐神があるのも地名として古代にさかのぼるのである。海老村がエヒ村でありこれは蝦夷(エミシ)の村だったというときも古いのである。実際に弥生式の縦穴住居跡もでているからだ。
石巻に萱原という地名があるからそこが真野の草原となっていた。そこにも真野という地名がありまた真野公という木簡まで発見されている。
ここで地名とも一致しているからここだともともと言われてきた。
ただそこはあまりにも遠すぎるので南相馬市の真野が古墳とかも多く金銅製双魚佩( そうぎょはい)なども発見されたので有力になった。
どうしても地理的に石巻が遠すぎるのである。
なぜ歴史的に伽耶国のことなどが取り上げられなくなったかというと伽耶とかが隠されるものとなったためである。そして伽耶というのは蝦夷にもなっていたのである。
伽耶琴が新羅琴となったり百済に併合されて伽耶の存在は希薄となり伝説化したのである。
百済は正史に残ったが伽耶はあいまいなものとなってしまった。百済が滅びたときも日本に亡命した人たちがいた。
伽耶はその前の時代でありわかりにくいものとなったのである。
原住民と同化したのである。カヤ族がいて棚倉で大和軍と戦った伝説が残っているからだそれだけ渡来人の歴史が古いということをこれは証明しているのである。
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