南相馬市の歌
(相馬野馬追い迫る)
太平洋から太陽が昇り飯館村の山の方に沈む
飯館村は月なのである。
月と太陽の旗印の一つの現代的意味になる
飯館村は山中郷であり野馬追いに出ていたからである。
南相馬市の歌
昇る朝日に広々と
太平洋の開けたり
勇ましく船はい出けり
松風鳴りて車輪梅咲きぬ
阿武隈の山脈つらね
陽は輝き没りて
月のあわれ傾きぬ
山よりの水は流れて
真野川の奥の深しも
新田川の瀬音や
水清くひびきつつ
田をうるおし実りかな
国見山望みて高く
小高、原町、鹿島
一望に見晴らして
南相馬市に栄あれ
たゆまず日々の勤め
代々継ぎし大地に
岩のごと誠の力
ここに養わむ
花は清楚に山中に
影深き森にしあれ
隠されし家のあり
ここに心静まりぬ
夏の日や雲雀が原に
昔郷士の旗印翻る
馬一心に駆けりつつ
戦国時代の絵巻かな
真夏の空に入道雲や
馳せ参ず各地の郷士
相馬藩の名だたる武者や
一同にここに奮い立つ
祭りにたぎる心意気
神社の神輿若者かつぎ
本陣目指し上るかな
その掛け声のひびきけり
南相馬市というとき原町の国見山に上ると丁度視界に入る領域なのである。
まさに国見山なのである。浪江とか小高になると視界からはずれる
だから地理的一体感がある領域だとなる
野馬追いにしても相馬藩にしてももともと小高に最初に城があったから
小高を基点として相馬藩があった。
野馬追いで雲雀が原に終結するのは小高神社であり中の郷であり北郷であり相馬の宇多郷である
北郷は小高より北のことであり小高を基点にして北になった。
会津では会津の城があるところが基点であり喜多方(北方)となった
浪江は別な領域としてあったがあとで相馬藩に組み入れられた。
飯館村は鎌倉時代から岩松氏の領域としてあったから相馬藩に組み入れられた。
飯館村が南相馬市と合併しなかったのは地理的要因が大きかった。
歴史的には相馬藩の領域にあった。
南相馬市では新田川と真野川がある、新田川は短い川であり浅瀬である。
青葉城の唄の瀬音ゆかしきの瀬音がする川である。
真野川は長いから深い所があるからあまり瀬音はしないのである。
だから川というのも個性があると思った。
高瀬川は急流であり景勝の地であった。浪江には二つの川が流れていて川の町だった。
山としては高い山がないのでものたりない、でも山に森がありそこが深い影をなしているそういう場所に安らぐ、飯館村はまた別個の高原の村としてある、やはり森につつまれた村である。地域でもさらに地域に分かれ地形的に個性がある。
だから意外と地形的には平凡なのだが変化がある、特に海があるから山国とは違っている請戸でも烏崎でも松川浦でも港があることは漁港があることは山国とは相当に違う
松川浦からは貨物船とかが出ているから貿易にもなる
要するに相馬藩内でもその地形は複雑でありあきない、ましてや福島県内になると福島県は大きいからその地形は本当に多様である。自転車で旅をしてそれを書いた。
日本の地形は複雑であり狭いのだがあきないのである。
ヨーロッパとか中国でもアメリカでもどこまでも平坦な地がつづき大きな川が流れていて単調なのに比べると日本の地形はともかく山あり川あり海ありで複雑なのである。
だから旅してあきないのである。
松風鳴りぬ・・・この松原は消えた、右田の松原は消えた・・・それが残念
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