原発事故で見直されたもの
(万葉集の歌よりー純粋な水の貴重さ)
馬酔木あしびなす 栄えし君が 掘りし井の 石井の水は 飲めど飽かねかも
咲き誇る馬酔木の花のように栄えたあのお方が掘られた井戸、その石で
組み上げた井戸の水は、いくら飲んでも飽きないことだ.
ある高貴な人にゆかりの井戸を誉め称えた歌.石を積んで頑丈に囲んだ
井戸は、その所有者の富裕と威勢を示したことでしょう
井戸をもっていることは自分の子供の頃でも水道もないから近くの井戸水をもらっていたのである。風呂に水を汲むときはバケツで自分も運んだからその苦労を知っている。
人間にとって水は一番大事である。
インド辺りは水を遠くから運ぶのが女性の仕事になっている。
石で囲まれた井戸となると当時では富裕な家だった。
農家ではたいがい井戸があり町内では井戸がない家があり水をもらうのに苦労していたのである。
現代では水の貴重さを感じない、水道の蛇口をひねれば水がでてくる。
ただその水は純粋な水ではない、当時の水は今の水とはまるで違ったものかもしれない
原発事故で感じたことは水もそうだが土でも森でも空気まで汚されたことである。
こうしたものは生物が生きるためのベースでありこれが汚染されたら生きていけないのである。
でも現代生活はそういうことを認識していなかった。そんなものに価値を置いていない。そういうものは意識しなくても当然あるものであり価値あるものではない
第一空気に価値があるなど感じないだろう。それは無料であるからだ。
しかしそうした人間生活のベースになるものが汚されたときどうなったのか?
人はその土地に住めなくなったのである。
この辺ではまだ山の方では井戸とか清水などをとりいれて暮らしていた家があった。
山からの清水をとりいれるのはまだ全国的にも山の方だとある。
なぜならそれだと水も無料になるからだ。水道のように金を払う必要がない、山村などでは現金収入が少ないのだからそういうことをしないと生活できないとういこともある。
原発事故ではいろいろ考えさせられた。でも以前として現代生活では電気なしではありえない。そうした自然のものより電気の方が大事になったのが現代である。
もう電気なしでも車なしでも生活できない、一時大熊の人がもう家族がバラバラになって暮らすより蝋燭で家族一緒に暮らした方がいいと言っていたがそれだけ原発事故の被害でそこまで極端化して考えるようになったのである。
現代は自然というより科学技術の方が人間の生活にとって大事になった時代である。
これまでは第一次産業に戦前でも80パーセントとか従事していたというとき農業は自然に密接にかかわるから自然のありがたさを肌で知っていた。
それが高度成長とかなり急速に失われたのである。
農業では生活できない、漁業では生活てきない、親は農業だけはやるなと子供に言ってその子供は原発で働くようになった。
そういう時代になったとき自分たちの生活を支えているベースとなるものをすでに価値を置かなかったのである。
その最も基本となる水についてもそうである。水に価値を置くことはない、ただ水でも水で有料になるから無駄使いはできないということはある。
でも昔の井戸水を飲むように水が貴重であり水なくしてはありえない生活というのは失われたのである。
最近どうも運動したとき様々なジュース類を飲む、そのジュースは甘い、相当に砂糖が入っている。その砂糖がかえって疲れさすのだとインターネットのサイトでで読んだ。
かえって水の方が体にいいという。何かジュースとか飲むと喉がかえって乾く
何かそれも良くない、お茶などは飲んだ後に喉は渇かない、だから今のジュース類にはいろいろな薬が入っていて良くないという。疲れをとろうとしてかえって疲れさすということもある。
栄養をとるというとき新鮮な生のままのものを野菜でも果物でもなんでもとればいいが今は何でも加工されることによって栄養が失われているのである。
また栄養をとりすぎて栄養過多にてり糖尿病とかになる人が増える
結局人間あきないのはそうした薬が入った砂糖で甘すぎるジュースなどではない、純粋な水が体にいいのである。
だからこそ・・・くめどあかぬかも・・・になっている
それは老子が2000年前に言ったように「無味を味わう」でありそれが純粋な水のことなのである。ともかくあまりにも加工ささたものが多すぎるのである。
文明とはそうして無駄なことに相当なエネルギーを費やされているのである。
だからこそ老子の思想が逆説的に現代への警告となっているのである。
そうして無駄なことにエネルギーが費やされることはそれだけ労働の量が増える
結果的に人間は文明化してもかえって労働の過剰に苦しんでいるのである。
働くといってもそれがすべて有効なもきとは言えない、膨大な無益な労働が文明から生まれている。
栄とは何か?
御民われ生ける験(しるし)あり天地の栄ゆる時に遭へらく思へば(万6-996)
天地と一体化して栄がある。今は文明という人工物と一体化して栄えるがある
極端化したのが原発が栄えだと双葉町では横断幕まであった。
そしてもうその故郷にも住めなくなった。栄どころではなくなったのである。
漁業者でも漁業権を東電に売り渡して栄があったが肝心の魚さえとることができなくなった。つまり第一次産業自体がこの辺でも全体の一割にもみたない生産になっていた。
原発と一体になり栄があるとなっていたのである。
それはここだけではない文明自体が自然と一体化して栄があるのではない、科学技術とか機械とか一体化して栄があるとなったのである。
そこでその生活のベースになる水とか土とか空気とか森林とかそうしたものの価値は認識されなかったのである。
万葉集時代となればそんな時代に何か豊さがあるのかとなる。
でもその時代にも万葉人は確かな豊かさを認識していたのである。
なぜなら今になると万葉集の歌のようなものが作れないことでもわかる。
その時代にしか作れないものがあるというときその時代の価値観がありそれが今とはかけ離れているからそうなる。
人間の生活の基本が何であるのかを原発事故は見直す結果とはなったのである。
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