2016年06月26日

知っていることと理解すること違う (知ることより理解深めること)


知っていることと理解すること違う


(知ることより理解深めること)


知っていることと理解することは違う、知っていることは膨大になるけどそれは単に知っているということであり理解しているわけではない、現代はグローバルに知ることが膨大になる、でも外国になると理解することがむずかしくなる
例えば人間でもあの人を知っているというのとあの人を理解しているというのは相当に違う、まず一人の人間がどういう人なのか理解することがむずかしい
それは家族ですらそうであり、家族でも生い立ちとか境遇が違ってるからである。
夫婦でもそうである。知ることは容易なのだけど理解することがむずかしい

一人の人間を理解するには時間が必要である。理解できないのは時間がないからである。少なくても二三年とか付き合わないとその人のことはわからない。
だからその人がどういう人なのか簡単に判断できないのである。
江戸時代とか村のような狭い社会だったらあの人がどういう人かなど知り尽くしていたろう。でも村以外の人と交わるときその人がどういう人か理解できないから警戒するのは当然だった。
現代はそうしてその人をどういう人か理解できないままに交流することが多くなった。
そしたらどうしてその人を信用できるのか?それでうるさく保証人などが要求される
その人のことを知らないのだから書類選考したり何を判断基準にするか採用する方でも困るからである。
自分も失敗したのは知らない人を家に入れて働いてもらって大損害を受けた。
何か同じ町であり田舎ではそんなことをするとは思わなかったのである。
ただその人が金に困っていたことはわかっていた。
もう一人は親の代からつきあいがあった人だったがその人が金に困っていることがわからなかった。事業で成功した人とばかり思っていた。
なぜならその人はそういうふうに吹聴していたからである。それで病気のとき借金を要求されて苦しられたのである。

いろいろな事件があってもその事件を知ることができてもなぜそうなったのかは理解すことがむずかしい、あらゆることで理解することはむずかしい。あることについて正否があり人についての評価でもそうである。
それは知ることができてもそもそも理解することがむずかしいからである。
現代とは知ることは世界的に膨大になっている、でも理解することは少ない
江戸時代あたりは狭い範囲で生きているから知ることも少ないが理解することはかえって人でも回りのことでも深いものがあった。
それは人間についてもでもその土地のことでもなんでもそうである。
現代は何でも広く浅くであり理解を深めることがしにくいのである。

人を理解するとき、understandとあり下に立つなのである。これもどういうわけで生れた言葉なのかわからないけどヨーロッパは貴族社会だけどそもそも人を理解するにはその下に立たないと理解できない、上からの目線では人は人は理解できない、今度のイギリスの離脱問題でも底辺で働くイギリス人のことがわからない、上流階級は別に移民でもいいとなり残留になったという。そのしっペ返しが投票に現れた。
移民に職を奪われるとか底辺層のことを理解していない、つまりunderstand 下に立って理解しないということなのである。
それも政治家でも何でも下に立たないからそこに底辺で苦しんでいる人たちのことが理解できず無視する、まず貧乏だって今では外見的にはわからない、でも貧乏に苦しんでいる人が増えた。ただ貧乏だからといって生活保護でも人様々でありその事情は良く接してみないとわからないのである。
現代はともかく広くグローバルに交わるのだけど理解することがむずかしい
そこに様々な誤解や軋轢が生れる、外国人が大量に入ればますますそうなる
言葉も理解しないというとどうして理解できるのかとなる
つまり移民問題はただ安い労働力として考える、ロボットのように考える、相手は人間なのだから理解し合わないとまずたがいに協力はできないのである。
だから移民は問題なのである。機械の方がそれならいいとなる。

理解するというとき本当に自分は家が傾くほど本を買ったけど理解していなかった。びっしりと線を引いていてもそのことを全く忘れていて理解していなかった。理解しているのもあったが多くは深く理解していなかった。
そして今になると二三行を読むだけでその言っていることを深く理解できる
老人は理解力とか洞察力が深まる、若い人には行動があっても理解力がないのである。
若いときはどうしても行動が先になる。それは正しいことである。
旅をするということは行動なのである。旅しているときとか何か行動しているときそのことについて理解できない、でもあとで理解することが深まってくる
人生でもその時々にこうどうするのだがその意味が理解できないが老人になりふりかえるとりかいできなるのである。あれはそういうことだったのかと理解できる
歴史でも百年たってふりかえり理解が深まる、最近明治維新について見直されているのはそのためである。

人間は多く知ることではない、あることについての理解を深めることである。それは人間についてでもそうであり社会についてもそうである。
そうしないと浅薄なもので物事を判断するようになってしまう、つまり数が多いとかナチスのようなファシズムになりやすいのが現代である。何か感情的に煽情的なものとしてあおられそれで全員は理解しないで行動することになる
それはカルト宗教団体がこれほど増えているのもそうである。題目を唱えればいいというのはまさにファシズムである。それは何も考える必要がないからである。
すべてはハイルヒットラーで終わりになる。
ホピュリズムになりやすいのがまた民主主義なのである。多数決がすべてだとなるとそうなる、なぜなら庶民は知ることはできても理解できないからである。
そして現代では理解できないことが多すぎるのである。
原発事故もそうして起きたのである。庶民にとって原子力とか核となると理解不能になるからである。

知っていることをいかに増えても結局人間は賢くなれない、互いに理解しあうとき相手との和解があり平和もありうる、貧富の格差が問題になっているが今は金持ちと貧乏人は交わらない、するとたがいに金持ちのことも貧乏人のことも理解できないのである。
理解できないとそこにただ敵対関係だけになるのである。
だから金持ちと貧乏人を分けるマルクスの階級闘争の思想は危険だったのである。
現代がそうなりつつあるから危険なのである。
イギリスの離脱問題でも残留派は金持ちに貴族に多いというとき下で働くイギリス人の庶民のことが理解していなかったのである。

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