2016年06月06日

買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)


買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない


(古いものが失われたことによる損失もあった)


家事をやるときまず何を買うかが問題になる。どういうものを料理でもそろえるのかが問題になる。
それがスーパーでもホームセンターでもそうである。そこに何があり何を買うべきかを知ることがまず第一である
そして今では小さな町の一万くらいの町でも相当な品数があり何を利用すれば最適なのかそれを知ることが肝心だとなる
家事を十年していても未だにそのことがわからない、それだけ品物が増えすぎたのであるその点インターネットだと検索で探せるから便利である。自分の欲しいものをキーワードでと探すから欲しいものがわかりやすくなる。
それがスーパーでもホームセンターでも品物がありすぎると目当てのものを探すのが大変なのである。
ただ見て回ってこんなものがあるのかということの発見はある。
インターネットではキーワードでしか探せないからである。
だから本屋に行く楽しさはいろいろな本を見て歩くことにあった。
でも地方の書店ではもうその種類が少なすぎるから書店は用なさなくなった。
今になると仙台に行くのも億劫になったから今年はまだ仙台に行っていない。
別にアマゾンで本などいくらでも買えるとなったからである。

ネット販売だと店屋めぐりとかできないし街を歩いて楽しむということもできない
地方の商店街はほとんどシャッター通りになっている
ハチンコ屋はどこにでもあり何か街自体の魅力が喪失した。
街というのは自然環境とか歴史があり成り立っていた。
相馬藩だったら城があり城を中心として各地で城下町が形成され街も形成されてきた。
通りを歩く楽しみがなくなった。仙台辺りはまだある。
青葉通りとかあり学生も多く若い人も多く歩いている
歩く楽しみがまだある。通りは自然の風光とかを感じ人が生活する息づかいを感じる場所であった。青葉通りはまさに青葉にふさわしいのである。
それで俳句とかにもした。それがビルの中に入るとそういう自然の風光とか歴史と切り離されるのである。
それはスーパーとかでも同じである。つまりスーパーなどには自然の風光とかその土地と切り離されたものである。その最たるものがイオンなどである。
街から切り離された郊外に独立して膨大な品物だけがあるという世界である。
それは車社会になって生れたものである
駐車場を旧来の街では通りでは確保しにくいからそうなった。

城下町となるとやはりまだ歴史とか風光を維持している。それで熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとしている、前にも熊本では地震で何度も城が破壊されて再興していたのである。
それはやはり城が以前として街のシンボルとして精神的支柱としてあったからである。
そうして古い街が残っているのは現代では大きな都市に限られる
京都とか奈良とか東北では仙台とか盛岡とか弘前とかである。
ただ相馬市の不思議を書いてきたけどなぜあそこに行くとしんみりするのかということである。
それは城下町だけど別に城が残っているわけでもない、でも高いビルがないということが自然の風光が映えるものとしている、街作りとして公共の会館などが入母屋作りにしているし今度建てる市庁舎もそうである。
だから城下町の雰囲気というか落ち着いたものとしている。これには反対もある。

何か確かに建物だけに金をかけているという感じになるからだ。そこに住んでいる人からしたら福祉とかその他のものに金をかけて欲しいとなる人もいる
原町の街は何か病院の街という感じがする
駅前に高い病院のビルがありそこに若い看護婦が多い、若い女性にふれられる活気が感じるのは地方では病院だというのも現代を象徴しているのか?
南相馬市立病院はビルとして一番高く見晴らしが良かった。入院していたとき海に船が行くのが見えたのである。あの辺から海が見えないからである。

買う物が増えるというとき選ぶのが容易でなくなる、自転車など今や外国をふくめものすごい数がある。変わったロードに乗っている人がいた。どこで買ったものなかのかと思う原町の自転車屋では外国製まで置いてある,ジャイアントのロードが飾ってあった
その主人は直接自転車にのって乗り具合などを確かめ客にすすめている。
そこで一台ハナソニックの電動自転車を買った、つまり何を買っていいかわからないほど自転車の種類も数も増えたから客は選ぶのに苦労するのである。
それは情報という分野でもインターネットが出た結果そうなった。
膨大な情報をどう選ぶかが問題になる、そうしないと情報に追われて時間を奪われてしまう。

だから今は新聞も読まないしテレビも見るのは限られている、今自分が力を入れているのは情報をプロクなどで発信する方である。
若いときはどうしても情報でも知識でもとりいれる方であり発信する力は弱い、年取ればやはりそれぞれに経験を積むし知識も自分のものとなってゆくから発信する方が多くなるインターネット時代になると知識でも情報でも増大するが肝心のものを読まないということもありうる、つまりくだらないものに追われて時間を消費するということもありうる
これはインターネットがないときもそういうことがあったから同じだけどその情報量が違いすぎるのである。
本が中心のときはベストセラーが必ずありそれはつまらないものでもそこに関心が集中して買う人がいたのである。それは実は全くつまらないものであっても百万部とか売れていたのである。今はベストセラーもなくなった。
出版の世界が崩壊しつつある、自分の町では一万の町ではもう書店はないし他でもそうだろう。書店はなくなることは目に見えている

本というのはまず選ぶことが本の時代でもむずかしかったし学術的なものになるとなかなか地方では手に入らないので仙台には本を買うために行っていた。
インターネットの時代になるとまずアマゾンでない本がないからいい時代である。
こんな本があったのかという驚きかある。本というのは学術的なものでも膨大なものがあった。それを知らなかったので知識を追求するには地方では相当なハンディキャップがあったのである。
それで最近詩の本を集めたりして参考にしている。他にも何か自分で文章を書くとき参考にする本をインターネットの電子本で拾い読みしてアマゾンで注文して買ったりしているだから田舎にいてなにか不便を感じないのである。

ただ書店で本を見て楽しむということがなくなった。こんな本があったのかというキーワド探せないものがあるからだ。
出版社が本の世界からインターネットの電子空間に入れないのはあまりにもその変化が大きいので入れないのである。出版の世界にはその流通から本作りまでこれまで培ったものがありそこからぬけでれないのである。
出版文化というものがあるしまた本は二〇〇〇年もの歴史があるから本というものからぬけでれないというのもわかる。
本で読むのと電子本でインターネットで読むのは何か違っているからだ。
同じ内容のものでも人間の感覚で違って感じるからである。


物が千倍増えて情報が一万倍も増えたら人間は対処できるのか、処理できるのか、そんな能力が人間の脳にあるのかとなり小説までコンピュターで作れるとなる
なぜならそこに膨大な情報があるからだ。コンピュターは処理できるからである。
人間はとても処理できないのである。知識でも情報でも無限である。
ただ知識というとき一つの世界観を形成するために知識を深めるということがある
知識というとき何か本来は生きた知識となるべきでありそれは実際の生活する場でその知識が言葉でも結びついていた。
だから自分の場合は故郷で石や岩や樹などと結びつく世界観を詩などで追求してきたのである。
エジプト文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でもマヤ文明でも仏教文明でも日本文明でも一つの世界観があり知識もそこに総合的に集約されてきたのである。
だから時代的には日本では奈良時代があり平安時代があり鎌倉時代があり江戸時代かありと一つの世界観を構築してきたのである。文明には整合性があり調和していたのである。

明治維新もそうした伝統があって成し得たのであり西欧化したというときそういう伝統があり日本文明を維持して西欧化したのである。
日本文明があり西欧化がありえたのである。技術的なものでも西欧から入ったものの翻訳を漢字で新たに造語したとういうのもそのためである。
今知識でも何でも一つの世界観の形成ができない、ただあらゆるものがごった煮になって混沌として混乱するのである。
膨大な物でも情報でもただふりまわされているという感じになる

日本ではあらゆるものを無節制にとりいれてきたけどそれがさらに混乱に拍車をかけて
いる、日本は日本の伝統歴史を見直して日本文明を再構築すべき時に来ているのである。その一つの試みを自分は地方でしてきたのである。
それは別に外来の文明を排除することではないのである。

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

タグ:情報過剰
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