2016年05月27日

ハンス・カロッサの詩は戦争の時書かれたから励みとなる (津波、原発事故の復興を祈る詩)


ハンス・カロッサの詩は戦争の時書かれたから励みとなる


(津波、原発事故の復興を祈る詩)



全額の弁済

復讐の女神たちを恐れ
我等多くを断念した
血気はすべて失い
祭ももはや催すのすら憚れる

かつての財産は次第になくなり
窮乏生活に耐えるしかなく
万事を覆う
償いきれぬ罪業の影


魂は羽ばたくことを許されず
幸福は墓石の下に沈んだ
親しい死者たちは誰も
われらの下に帰ろう欲しなかった

だが汝らは言う 悪しき柵(しがらみ)は
今ぞ取り払われるべき時と
再び喜び得る者あらば
誰とてもこれを褒め称えんと

そうだ我等の願いもそこにある 子供たちが
昔ながらに無邪気に遊び戯れことを
瓦礫と化した我が家の跡にも
色とりどりの花が咲き乱れんことを

共に生きる人々に幸いあれ!
悲しい悪夢からは容易に癒され
すべての人々の生活に
新たな空疎な場が膨れあがる

見よ、われには誰かを呪う資格なし
世界の破壊者に対してもしかり
闇夜の道を求め
孤独な裁きを自ら下さねばならぬ

聖なる存在の求めならば
その負債を全額弁済せざるをえない
万有が刻々と光に転ずる中で
自ら消尽するを思わねばならぬ

ハンス・カロッサ



著者はドイツ人でナチスの時代でこの詩は自分の家がアメリカ軍に接収されたあとに書いたとある、何か混乱した時代だった。戦争の時代の人である。

詩はわかりにくいものがある、でもその背景に何があったか読み取るべきである。
こういう詩はなかなか書けない、深刻な体験をしたから書けた
詩でも文学でも深刻な体験しないと読者に訴えないだろう。

この辺では津波の被害や原発事故で深刻な体験をした。
だからなにかそれと重ね合わせて読む
この作者は戦争だけどこれも実際は津波であれ原発事故ともにていた
戦争というのも悲惨でありその体験は深刻だったのである。
自分の家が接収されたというのも深刻な体験だったのである。

親しい死者たちは誰も
われらの下に帰ろう欲しなかった

原発事故の避難区域では先祖の墓もも棄てられた。先祖もものいわぬが被害者だともなる津波では村が消滅して祭りすら消滅する、これも深刻な被害である。

だが汝らは言う 悪しき柵(しがらみ)は
今ぞ取り払われるべき時と
再び喜び得る者あらば
誰とてもこれを褒め称えんと

何かこの辺では人間関係も激変した。それで避難先で補償金などで対立してもめた。
でも新しい人間関係を築いた人もいるだろう。
悪しき柵(しがらみ)とは何なのか?
避難区域から去って新しい土地に新しい家を建て新しい生活をした人たちも多い
それで良かったならその人たちも責めてはならない、そこで新しい生活をするがいいとなるのか?
避難区域にとどまれと言っても無理だとなればそれもいい、責めるなとなるのか?
むしろ喜べとこの詩で訴えている

共に生きる人々に幸いあれ!
悲しい悪夢からは容易に癒され
すべての人々の生活に
新たな空疎な場が膨れあがる

共に生きる人々に幸いあれ!

避難区域に帰りともに生きる人なのだろうか?
悲しい悪夢から癒され・・・というのは正に津波の悪夢であり原発事故の悪夢である。
この悪夢からは本当に癒されるのは容易ではないはずである。

すべての人々の生活に新たな空疎な場が膨れあがる

空疎な場とは何なのか?津波の跡や原発事故の避難区域で荒地と化した場所と通じている
それは戦争で焼け野原になったとかを現実に体験しているからだろう。 

見よ、われには誰かを呪う資格なし
世界の破壊者に対してもしかり
闇夜の道を求め
孤独な裁きを自ら下さねばならぬ

誰かを呪う資格なし
世界の破壊者に対してもしかり

これは津波ならそうならざるをえないだろう
でも原発事故を起こしたものに対してはみんなそうはならない
呪っているだろう。それでも原発事故を起こした原因は地元の人にもあった
「世界の破壊者」とは当時の戦争だからドイツならアメリカなのか?
広島の原爆もありそのアメリカに呪うということがある
でも日本は戦後アメリカに呪うということがあまりなかった不思議がある
全面的に降伏して復興したのである。

孤独な裁きを自ら下さねばならぬ

結局個人的にそうだけど人間が苦しみを受けるのはカルマである。
その人のカルマなのである。自分のここ十年の病気や介護もカルマだったのである。
必ずカルマが人間には蓄積されてそれが見えなくても苦しみとなって現れるときカルマを業を理解するのである。
舛添東京都知事でもそうである。彼も女性関係とかいろいろカルマを積んでいたのが現れて責められているのである。
彼が特別かというとほとんどの人がカルマを積まない人はいない、どんな善人でも罪を犯さないとかいう人もカルマを積んでいる、ただ苦しみとして現れないとき自覚しないのである。でも60代以降カルマは個々人にも現れる、それは逃れようがないのだ。
カルマの清算が強いられるのである。

津波は天災でありこれは呪いようがない、ただ作者は何か戦争とかの悲惨も受け入れている不思議がある。結局呪ってもどうにもならないということを悟ったのだろうか?
諦念の詩になっているのである。

聖なる存在の求めならば
その負債を全額弁済せざるをえない

負債というのはカルマであり人生の中で必ず個々人にも負債がカルマをもち全額弁済しなければならないというのは人生の厳粛な現実なのである。
一体借金してそれを他人に負わせることができるのか、借金は具体的なカルマなのである事業に失敗してその負債を自分に負わせようと病気と苦しみの時してきた人がいる
そうして犯罪にまでなる人は普通にいる

作者はなぜこれほど諦念したのか?みんなこの辺で津波だ、原発事故だと起きてこんなふうに諦念している人はいないだろう。
何か悲惨な情況でも前向きに対処しようとしているのがこの詩の意味である。

そうだ我等の願いもそこにある 子供たちが
昔ながらに無邪気に遊び戯れことを
瓦礫と化した我が家の跡にも
色とりどりの花が咲き乱れんことを

これもこの辺の情況と同じなのである。津波の跡は瓦礫の山と化したし原発事故の避難区域でもにた情況がある
実際に作者の家はアメリカに接収されたときそう思ったのだろう。
ハンス・カロッサの詩は前にも紹介したけど戦争という深刻な体験と津波や原発事故の体験はにているから理解できるとなる
ただこれだけの諦念にいたることはむずかしいと思う
何かあきらめきれないものが延々と残しているだろ。
第一放射能の被害はやっかいなものだからである。そうでも戦争の被害も日本でもそうだが深刻である。

最大の悲惨は広島の原爆の跡だったろう、それこそ世界の終わりを感じたろう
戦争というのはわからないにしても津波もそうだが本当に深刻なものだった
でもなかなかそれを今になると理解できないものとなっている
この詩は何か復興の励みとなるものだろう。
ただこういう心境になることはこれだけ悲惨なことが起きるとむずかしいとなる
でもいくら嘆いてもどうにもならないということも事実でありだからこそ諦念して一からはじめるほかないというのがこの詩の趣旨なのかもしれない
詩は具体的には言わない、引喩的に示唆するのが多いからそれくみとり読む必要がある。


タグ:復興の詩
posted by 老鶯 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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