和歌山県をイメージする
(古代からふりかえれば・・・)
4月1日時点の和歌山県推計人口は、95万8018人(男性45万408人、女性50万7610人)で、1
997年以降、20年連続の減少となった。1年間の減少数は9347人。
減少幅は拡大傾向で、調査開始の1967年以降最多となった。
紀伊半島の由来ともなった紀伊国の大半に当たる(一部は三重県となっている)。江戸時代は初期には浅野家、のちに御三家の紀州徳川家の領地(紀州藩)であった。附家老として田辺に安藤家、新宮に水野家を置いた。古くから「木の国」と謳われたほど山林が多く(中山間地域の比率が7割超)、紀伊水道や熊野灘を挟んで変化に富んだ海岸線が続く。また、このような深山幽谷の地形から高野山開基による仏教寺院や熊野三山などの神社信仰が発達しており、その一方で中世から近代にかけては紀ノ川沿岸を中心に全国から見ても大規模な都市が形成されていた。
水戸、尾張より格上だよ将軍を7人も出してるし。
最後の将軍も一橋慶喜じゃなく、
そのまま紀伊家の徳川家達にしてりゃ
もう少し江戸幕府も存続してたかも知れない。
和歌山は多くの優秀な人材を輩出してる。弘法大師空海が
最後の修行の場を和歌山の高野と決めたのには理由がある。
根来衆など問題地域
大阪の監視
昔は船運メインで大都市
将軍輩出
鉄道に変わり徳島共々衰退
道路に変わっても変わらず衰退
和歌山は行き止まりだからな
和歌山の向こうには海しかない
親戚が新宮という所に住んでるが和歌山まで車で五時間以上かかる
険しい峠もあるし全く地元という感じがしないといってた
三重の県庁所在地の津の方が近いから三重県にしてほしいともいってた
確かに和歌山は、和歌山市以外平地という感じのところがほとんどないな。
房総も先っぽは過疎だし、
三浦も絶賛減少中。
伊豆も言うまでもなく。
人口密集地の隣にあろうと、
半島はどこも大変。
熊野古道
鯨
端くい岩
竜神温泉
十津川温泉と龍神間を結ぶ酷道(国道425号?)
那智の滝
1585年(天正13年) - 羽柴秀吉の命を受けた羽柴秀長による和歌山城築城開始。古代からの名勝地「和歌浦」に対して、秀吉が「和歌山」と命名したことに由来する。
近世[編集]
俗に「根来」と称される朱漆塗器物の一群は、繁栄を極めた中世の紀州根来寺で
一山内の旺盛な需要を賄うために製作された朱漆器が主流をなすが、江戸時代に
入ってからも庶民の間では「根来もの」「根来出来」と称されて喧伝・珍重された。
それは中世根来一山内の組織立った工房が優れた木地師集団や塗師を擁し、彼らが
積極的に機能的で洗練された美しい形姿と微動だにしない頑健な素地づくりに励み、
さらには堅牢な塗り肌を持つ良質な漆器に仕上げられたからに他ならない。
和歌山市加太
旧休暇村・加太研修センター
藻刈り舟 沖漕ぎ来らし 妹が島
形見の浦に 鶴翔るみゆ
巻7−1199
紀伊の国の 雑賀の浦に 出で見れば
海人の燈火 波に間ゆ見ゆ
巻7−1194
和歌山市和歌浦中
玉津島神社・塩竈神社
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ
葦辺をさして 鶴鳴き渡る
巻6−919
海南市下津町大崎
大崎集落手前
大崎の 神の小浜は 狭けども
百舟人も 過ぐと言はなくに
巻6−1023
日高郡由良町白崎
白崎海岸
白崎は 幸くあり待て 大船に
真楫しじ貫き またかへり見む
巻9−1668
和歌は若であり若の浦だった、和歌山県の由来は浦と山の県だということで地形と一致している。
ある県からどれだけのものをイメージできるか?イメージできるものが多ければその県のことに興味をもつ、和歌山県のことは結構イメージできるからふりかえると興味をもった隣の三重県についてはほとんどイメージできない。
和歌山県というといと古代から歴史があり万葉集の歌の数も多い、和歌山県という名自体が若の浦の万葉集からでている。
和歌山県というとき今は辺鄙な場所であり過疎地が多くなっている。地形的に平地がほとんどなく山と海しかないからである。
古代にさかのぼるとかえってそこは海があり漁業があり特に木の国と言われたごとく木材の供給する地として知られていた。
島隠り 我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上る ま熊野の船 山部赤人
このま熊野の船は有名であり船をつくる産地として熊野があった。熊野信仰も全国に広がった。特に東北にも広がり熊野系の神社が多いのである。そして和歌山県に鈴木姓が多いというとき相馬でもそうでありそれは熊野信仰をたずさえて移住した人が多いからである熊野信仰は山岳宗教のメッカであり高野山もあり熊野詣でがあり海と山との典型的な日本の地形の国としてもみれる、太地町のように鯨業が盛んだったのも海に活路を見いだすことがつづいていた。
今は辺鄙な地域であるが古代から船をつくる木の豊富な地域であり交通の要所としてあった。それから信仰も盛んであり江戸時代でも和歌山城でも立派であり徳川御三家であり吉宗将軍を出している。
この船をつくるということは重要なものでありそのことが見失われている。
外国でもレバノン杉が有名だけど船材として利用されて喪失した、つまり船というのが重要な役目をになっていたのでそうなった。船はやはりその後も大航海時代でも一時代を開いたように重要なものだったからそうなった。
大阪の監視
昔は船運メインで大都市
将軍輩出
鉄道に変わり徳島共々衰退
道路に変わっても変わらず衰退
これは古代からもつづいていた地理的宿命であった。船運があり確かに船は徳島にも出ていた。自分は日本の船だとたいがい乗っている。それだけ暇だったともなる。船は時間がかかるからである。沖縄には東京から5日間か7日間だったとかかけて行った。あれは客船というより貨物船だったのだろう。あれには一番長く船に乗っていた。あんな経験はなかなかできない、今はなくなっている
普通の船だと船はそれだけ時間がかかっていたのである。船旅と電車の旅は十分にした。自転車の旅もしたがこれはまだものたりないとなる、今になると疲れて自転車の旅はできない、やはり若い内にハードな旅はしていた方がいい。
鉄道に変わり道路も変わっても衰退したというのは船運なら陸の孤島でも良かったからである。むしろ船材が供給されるから有利だったとなる。
江戸時代でも北前船があり船が重要な役割を果たしていたのである。
新蕎麦やむぐらの宿の根来椀 蕪村
山深いということで木地師がいた。それが寺と結びついていた。寺は当時は文化の担い手だった。これなども歴史として興味深い、和歌山県はこうしていろいろとイメージできる県単位でイメージできる県が少ない、何々県とあってもそこをイメージできればその県に興味をもつのである。
その県をイメージするにはまず地理と地形を具体的にイメージできるかどうかなのであるそれには旅しなければわからないということである。
その点自分は全国を旅しているからある程度はイメージできる。
和歌山県というとき山と海の国であり今になると産業的には不利であるが観光としては面白い国かもしれない、
和歌山城石段長く我が上る登城するなれ秋の朝かな
和歌山城の石段は長く感じた、やはり吉宗の城であり55万石であり大きな城である。
山と海の国にしても木材の供給地でありそれだけの経済的基盤があったからそうなった。江戸時代でも地方には木材などは森林資源は大きな財源になっていたのである。
それが全国的になくなったとき地方は衰退したのである。
地方から供給するものがなくなり工業社会になればそうなる、石炭なども供給されないし結局地方は原発を作りそれは地方で供給されるものではない、そして森林も汚染されるだけとなったのである。
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