心に青雲のフログの趣旨は何なのか?
(キーワードは「相互浸透」「像で認識しろ」など)
ここも毎日読んでいる。批評家として優れていると思う、相反するところもあるが共感している
フログでは毎日読むのが少ない、それだけ書き続けることが大変なのである。
言っていることが首尾一貫している、内容も濃いものがあるから軽々に批判できなくなる俳句とか短歌を自分は作っているからそのことを批判しているから興味をもった
著者は人間の認識がどうして作られるのかを追及していることは確かである。
自分は相当旅したからそのことからいうといつも書いてきたけど最初は鉄道の旅が主だった、だから今でも鉄道が好きなのである。
でも鉄道の旅は人間が認識を作るのにはいいとはならない、鉄道の旅で認識したのが鉄道の駅名でありそこから何か地名に興味をもつようになった。
鉄道の旅は自分は暇だから普通車にのる、すると景色も見るのだが駅にとまると駅名が気になる、そこがどういう場所なのかということを駅名で記憶しているのである。
人間は自然でも旅するのにも何か手がかりというかとっかかりが必要になるのだろう。
それで歌枕ができた、その場所を象徴的に示す場所としてそこは寄るべき場所としてできた。人間はそうした目印になるものがないと不安になるからである。
人間が認識するというとき一番むずかしいのが地理とか地形とかを理解するときである。これだけは地図をみてもテレビを見てもわからないのである。
その場に立たない限りわからない、高さとか風と光でその場で感じるものはとてもテレビとかでも伝えられないからである。山でも遠くから見るだけでもいいが実際は上ってみれば一番いいのである。ただ登山となると体力がない自分には重圧であった、でもシナイ山まで上ったことがある。そこは草木一本もない荒寥とした山々である。岩山である。
外国の山は一般的に岩山である。中国でもそうでありだから荒寥としている
そこかに本当にモーゼが上り十戒を授かったのかとなる、それは本当に厳しい自然であるさらにヒマラヤも一回上ったけどこれも日本では想像を絶する世界である。
なぜなら富士山の高さまで上ってさらに8000メートルの山を見るからである。
そういうものを認識すること自体実際に体験しなければできない、実際は6000メートルくらいまで上らないと実感できないのである。そうなると体力的に厳しいから上れないとなる
この自然を認識するとなると本当は超人的体力がないとできないともなる
山という巨大なものに接するとき人間も山を認識するとなると山と心も体も同化するということか必要になるからである。
だから正岡子規が病人で俳句でもろくなものができなかったというのはそのためである。それは啄木にも言えることである。でもあの若さであれだけのものを作れたということに自分は凡才だから感心する、どうして自然に対する感性がそんな若くしてもてたのかとなる
自分は子規の「写生俳句」を基に作ってきた。その写生俳句というのが心の青雲の著者が言うように感情をぬきにしたものだったのである。
俳句は短いから悲しいとか淋しいとかうれしいとか感情的な言葉を入れると表現できないから写生に徹しろとして子規が唱えたのである。そこに功績があったのである。
だからいま写俳という分野がデジタル化ハソコンに生れたことでもわかる
写生俳句は写真と相性がいいのである。写真は見たままを写すから写生俳句になるのとか共通しているからである。
ただ写生俳句は深く鑑賞できないものにはつまらないとなるかもしれない、これのどこがか芸術なのとなってしまう。「鶏頭の一四五本もありぬべし」というのがそうである。
これが俳句なの芸術なのとなってしまう。
要するに一本あるのと三本あるのと五本あるのと花でも感覚的に違ってみる、だから数にこだわるのである。ただこれを鑑賞するとなるとこれのどにか個性があり芸術なのかともなる
これは写生なのだが自分が風雨の中にあったからその赤さを感じたのである。
赤いというとき何かあたたかいとかにも通じている、写生俳句は背景を読まないとイメージしないと平凡なものになるのである。鑑賞するものによって左右されるのが写生俳句なのである。
ともかく人間は病気になれば病的な見方しかできない、これはどうにもならないのである自然は病的なものではない、健やかであり生命力にあふれた存在でありそんな病的な人が見るのとはまるで違った強力な存在である。
自分は体力的に劣っているからなんとか体力をつけようと努力してきた、でも天才ならすでにそういうものがエネルギーが過剰に与えられているから努力しなくてもできる
そういう点で自分と心の青雲の著者は共通したところがあるので共感している
自分が師とした上野霄里氏は天才であったから偶像化される
天才と凡人の差があるからそこに偶像化する危険性があったのである。
心の青雲の著者の言っていることは理解しやすいのである。天才的なものは凡人にはついていけないのである。
彼のキーワードも理解しやすい、「相互浸透」なども最初わかりにくかったが最近はわかってきた。相互浸透とはレクサスとか高級車に乗ればその車と相互浸透して心も影響するというのは具体的でわかりやすい、自分は車に乗らないからそのことがイマイチ理解できないが例としては面白い
例えばホテルでもビジネスホテルとか安ホテルにとまると相互浸透するということはあるだろう。自分は貧乏旅行者だからまずそんなホテルとは縁がなかった
それは人間でも言える、くだらない奴とつきあっているとどうしても相互浸透してゆく、だからつきあう人には気をつけろとなる、それは会社でもそうである。
その会社で日々仕事していればそこにいる人と相互浸透してゆくことはさけられないのである。
例えば介護施設で働く人を知っているがその人は変な人しかいないというときその本人が一番変な人だったのである。まともでないのである。
介護関係とか施設には最低辺の人しか集まらないというときいろいろな問題が起きても当然なのである。
そういう最低辺の人が相互浸透している場所が介護施設だからである。
だからそういう場所に施設に入るのは怖いことだと思った、介護とか人が一番大事なのだがその肝心の人が最低辺の人しかいない、常識すらない人もいるだろう。
そこは誰もやりたくないからそういう人たちが集まってくる
またそういう相互浸透するという場はカルト宗教団体にもある、そこにはどんな人でも受け入れる、性悪だろうが何だろうが関係ないのである。一票になればとんな人でもいいのである。そういう人たちが相互浸透してゆくとどうなるのかということである。
どろどろとしたものが地獄の釜のようになっているかもしれない、なぜ出家したかとなると俗世間にいれば必ず相互浸透せざるをえないからである。この世の汚れに染まらざるを得ないからである。
夫婦でも相互浸透してゆるのがさけらさない、日々接しているのから当然だとなる、それで歴史でも王様とか殿様でもその妻妾口だして政治をまげるということがあったのもそのためである。
人間は基本的にみんな頭脳で認識を作っていると思っている、認識は体でも作っているのである。風を感じるのは体の神経であり熱でも寒さでもそうである。
だから自然を外界を認識するというとき車だと認識ができなくなる
まず風を感じないということが致命的なのである。風土というとき風と土であり風を感じないことは風土も感じないのである。
太平洋沿岸は春になると(東風-コチ)が吹く、それは三月のはじめころから吹く、それでこの辺では原発事故があったとき三月十一日が東風が海から山に吹いて飯館村から福島市とかまで影響したのである
これはまただ別であるが風を感じないと風土を感じないということがある
今年の桜は絶えず咲いてから風が吹き荒れていた、その風を感じて桜を見るのである。
ともかくこの世界を自然でも認識することは容易ではない、頭脳だけでは認識できないからである。
便利になるとかえって認識の領域は広がっても中味の濃い認識はできない
新幹線で東京から青森まで三時間でに行って何を認識したかとなると何もないとなってしまうだろう。
一方で船で名古屋まで行き名張を通り奈良まで自転車で行ったときはその行程を制覇したという満足感があり日本の一部を認識したとなる
だから江戸時代の人の認識と今の時代の人の認識したものは違っている
歩いて認識したものと歩いて旅して認識したものは違っているのである。
だから意外と今の人は近くのものを認識していないのである。自分もすぐ近くにある六号線の山にあれだけ山桜が咲いていたのを発見したのははじめてだったというのもそうである。他の人も車で通るからほとんど認識していないのである。
そういうことが現代では非常に多いのである。
いづれにしろ介護十年もして旅もしなかったから自分の認識能力は衰えた。記憶する旅をしてきたがこれもいかに認識として記憶されるかにあった。
どうしても電車の旅だと記憶に残りにくい、認識として記憶されないのである。
歩いて旅人か自転車くらいまでは体で認識して記憶に残されるが車などだとそうはならない、認識は五感で感じることでありそれに体でも感じることなのである、だから地理とか地形とか頭で知っていても知ったことにはならないのである。
峠を苦労して上ったり距離感を感じるとかないとできない、だから像として認識するというときもやはりその像というのが常に身近にあって心に刻まれることが必要になる
つまり富士山がきれいに見えるところに住んでいれば富士山の像が心に刻まれて。ゆくのである、毎日高層ビルとか鉄塔とかそんなものばとかり見ているとどうなるのか?
そこには自然の像などは関係しない、人工的頭脳が作られてゆく、それがまさに著者が都会に住んでいて矛盾している点なのである。
都会では人工頭脳が作られてゆく、日々接するものに相互浸透して人工頭脳化してゆくのである。
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