春彼岸(この世の無情、津波、家族の死、金の非情の短歌十首)
この世への未練のなおもありにしや津波に死せる人をとむらふ
津波にて死す人あまた五年過ぎまことなれかしなお夢とも思ふ
かたわらにつねにありにし母と姉今はなしかも我が一人かな
人の世は会いて別れてみな消えぬ夢の間なれやこの世のことは
姉と母争う時ありそも終わりともに眠るや春の彼岸に
我が母の死してあの世に何思ふ我を見まもる人となれかし
涙すら今はいでじも十年の苦しみ思ふ無情なるかな
万寿菊我が家に咲き慰める女のここにあればよしかな
形見とて残る最後は墓なりし春の彼岸や実家の墓かな
ひたすらに金を求めて金に追わるこの世に生きるは無情なるかな
金求め金に追われてそのうちにたちまち死にぬ人ならじかな
人と人その契りしも短きをたちまち消えてこの世になしも
故郷の家のなきしもかたすみに墓の残りし人知れじかも
この十年間経験したことは人間の非情、無情の連続だった。そこには津波もありそれは自然の無情でもあった。津波はまだ何かまだ遠いものではない、以前として生々としてあるし死んだ人はまだ彷徨っている感じになる
織田信長と「敦盛」[編集]
直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
前置きとしてこういうのがあった。全部を知っている人は少ないだろう。こういうときインターネットは便利である。
戦国時代は動乱の時代だから無常より感じたのである。無常を感じるということは平家物語でもそうだが人が大勢死ぬからそうなる。
それは津波でも自然災害でもつくづくあった。まさにこの辺はそうした無常に襲われた
未だに津波で死んだ人は生々しいしその霊は海辺を彷徨っている
こういう経験もなかなかできない、でも常にそうした無常は個人的にもあった、ただこうして多くの人が共有することはそんなにはない、それでも戦争のときがあったし二〇年もすぎたが神戸地震でもあった。この時は東北は遠いからそれほど身近に感じなかったのである。
この世が夢だというとき秀吉も難波の夢として一生を終わった。
本当に自分も家族を二人失ったとき六〇年も一緒にいたからそれが夢のように思える
そういうふうに長く一緒にいたものが消えるとそれがどうなるかとなると
存在していることが本当だったのかそれは幻だったのかとも思う
そして今度は自分が存在しているのは幻なのかとなる
津波のときも原発事故でも夢なのか現実なのがわからなくなるのだ。
そういうことを戦国時代に感じたのは当然だとなる
そこで人と人が殺し合うからさらに無情であり非情を経験したのである。
自分の一身上のことを語ってきたが本当に無情非情を一身にあびた。
姉が認知症になってからそうでありその後十年はこの世の非情無情無常を経験してきた。自分の周りもそういうこと無常の世界となった。
金を金に追われている人がいるのが普通でありそういう人が来て金の切れ目が縁の切れ目となり去った。
金を求め金に追われてそのうら人は人間的情をかわすことなく死んでゆく
特に現代はそれが人間の現実になっている
金を求め金に追われ人のことはただ金としか見えなくなっているのが現実である。
これも人間として悲しい現実である。そして人は虚しく死んでゆく、そして二度と会うこともないのである。
認知症の姉の最後は遂に金があっても銀行から金をおろせなくなって無常にも死んだ。
金を求め金をためても最後は自分の金すらままならなくなり死んだ
これもまた無常である。認知症は人間の無常を最も現実化したものでもあった。
そして最後に残るのは墓だけである。家がなくなっても墓だけが残っているのを知っている、墓こそがこの世の現実なのである。あとは夢幻にすらなる。
墓は最後に残るものだからである。その墓さえ遂には消えて何も残らない
自分がこの十年間に経験したことはまさに無常無情非情の連続だったのである。
それは回りでもそうであった、大量の死があり町が廃墟化してゆくなど無常がつづいたのである。
平家物語でもうそだがこういう時代は出家したくなるというのがわかる
自分もつくづくこの世が嫌になった。ただすでに老人だからこの世から去るから別に出家しなくてもまもなく死ぬだろうとなるからいい。
前から自分は人間が嫌いだった。それで三〇年間隠者のような生活ができたことは不思議だった。その時社会も平和だったのである。今になるとそれは特別恵まれた結果だったのである。それがあとで今になりまた苦労することになった因を作っていたのである。
楽しすぎることも危険なのである。苦難に対して弱くなるからだ。世間知らずも危険なのである。
ともかく自分はそういうことが重なって塗炭の苦しみをこの十年間経験したのである。
ともかく何にかこの世のことに金に追われ様々な俗世間のことに追われているうらたちまち人生は終わる、生を楽しむ時間をもつ人は少ない、社長になると金が入っても時間に追われているのである。
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。(徒然草)
期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん
人は正に今もこれである。金を求め利を求め金に追われて休むことなく人の情も消え楽しみもなくたちまち老いと死がやってきて終わる
自分が接した人がそうだった。人間の情は借金に追われて消え無情と化してただ金を求める,それが犯罪までになる。
常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。
常住できなくなったのが原発事故の避難者であり変化の理を知らなかったのが自分でもあり津波の被害者でもあった。
人間の世は常に変化なのでありそしてたちまち老いが来て死がくる、そのことは人間である限りどんなに科学が発達して便利になっても同じだったのである。
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