2016年03月11日

津波から五年過ぎてふりかえる (彷徨う津波の死者(詩)ー何故の犠牲だったのだろ)


津波から五年過ぎてふりかえる


(彷徨う津波の死者(詩)ー何故の犠牲だったのだろ)


彷徨う津波の死者

何故にその無垢なる子を
津波はのみこむ殺せしや
何故にこれぼと多くの人を
津波は飲み込み殺せしや
人は故に海をこの度は憎む
天地に情なし非情のみなりや
人の非情はあれば何故に
天地にかくも非情のありや
その非は人にありや
そを問えども海は語らず
天も地も語らずままなり
何故の仕打ちなるか知らじ
人は天地を憎み海を呪う
しかし天地は海は答えじ
戦争の死は人の非のゆえ
悲劇にも必ず人の非のあり
津波は何故なるか知らじ
死者の霊は未だに彷徨い
その所を得ずかつてありし
その場に執着して彷徨う
ああ 我はここにありにしと
家族とともにありにしと
また今生きる人もそこを離れがたし
死者もまた生者もこの突然の死を
いかにしても理解しえじ
かくして五年は過ぎにけるかな
歳月は過ぎゆくものなり
鎮魂はいかにしあれや
死者はなお彷徨いつつ消えじ
無念はそこにとどまり消えじ
一万数千の霊はいかに慰めむ
その残りし者の嘆きは消えじ
慰める術もなし
その悲しみは深くここにとどまり
その傷痕は癒えざりしかも
この津波は天地の海の怒りなりや
この世の乱れへの警告と罰や
何か人に対する戒めや
人の世の非情と乱れ故や
そもまたありうるべし
人が世が非情になるとき
自然もまた非情になるべしや
獣とて愛を注げば
その獣性は和らぎぬ
人の心が獣性帯びて乱れるとき
天地も海も怒りを現す
その犠牲となりしが津波の死者
また自然は人の世のことは知らじ
ただその自然の法則にして動く
その法則に逆らえば従わねば
自然は人を従わせるものや
故に人は自然の法則を究め知るべし
すでに大津波のありしをし忘る
その人の忘るることに非のあり
自然に非はなく人に非のありや
大災害を逃れる術はあるべし
ただ人はその対策をたてず
故に原発事故も起こりしなり
原発事故は天災にあらじ
人災にして自然に非はなしと
ただ人は天地を究めることならじ
故に自然に神に従うほかなし
人知を越える神の成す業を知り得じ
故にその文明も思わず崩壊する
人間の奢りは一瞬にして砕かれ無に帰する
津波はその恐怖を現実化せしもの
故に神を畏れよ,科学に自惚れるべからじ
神は一瞬にしてこの世を亡きものにする
その恐るべき力を津波が示す
恐るべき人にあらじ神にありしと
未だに人は津波に畏れおののくなりしを


今回の津波はいくら考えてもなぜかわからない、それは人知を越えたものだからそうなる津波で死んだ人は家族を失った人は海を憎むというのもわかる
何の非があってこんな仕打ちをするのかということがわからないからである。
戦争とか他に人間の悲劇はいろいろある、でも戦争になると戦争を引き起こしているのは人間なのである。神ではない、人間に非がありそうなっている
だから戦死者は何で死んだかとなると人間の罪とか人間の過ちの故に死んだとなる
恨むべきは神ではないだろう

津波は人間に非があってそうなったとのかというと不明であり不可解になる
ただこれはあくまでも自分の見解だが貞観津波のときは蝦夷征服とかの国家統一のための戦乱の時であり多くの犠牲者が出た、その鎮魂のために建てられたのが清水寺であり祇園祭りもそれに由来していると言う人もいる
そういう人間が多数死に犠牲になるとき自然もまた乱れる
慶長津波も戦国時代の時起こっていてその後収束したのである。
そして今回の津波もやはり世が乱れている、それは自分の一身上に起きたことを書いてきたが人間は利己主義が極端になり非情化している
自分が病気のとき火事場泥棒とか借金のために脅迫されたとか悲惨なことを経験してきた何か現代はモラル的に荒廃している、金だけが唯一の価値となって他者をかえりみない
自分だけがよければいいんだとなっている
それが自分の一身上に非情がそうだった、ただこれは自分が楽した結果として自分のカルマとして決算されたのである。
だからいちがいに今の世の世相からなったとも言えない

そうはいっても今の人間の価値は金だけになり非情化している、そういう自分もそうなのである。
なぜ外国に投資しているのか?それは自分だけが助かりたいという利己主義なのである。
外国に金をあづけいれば日本が困窮したときその金で助かるとか考えている
金持ちはグローバル化社会では日本にこだわらず日本が困窮したら外国に脱出しようとしている
中国人の大金持ちもそうであり国の支配者層自体が内乱とかなったら国をぬけだして外国に暮らす算段をしているのであ。
つまり自分だけは助かりたい、そんな困窮状態にならないように手を打っているとなる
それも利己的なものだけど金持ちはどこでもそうなる傾向がある
だから自分はそうして投資していることに疑問がある、たいした金でもないし今回かなり損しているはずでありもうかってもいないけどそういうふうに資本主義というのは利己心を助長する


そのことは原発避難民にもいえたのである。もう避難民は帰らない、荒廃した故郷に帰るより他で補償金で家を建てたり商売はじめたりとしている。
つまり故郷は捨てて補償金で自分たちがいい暮らしをすればいいとなる
これはまた事情が違うからいちがいに悪いとは言えない
でも何か本来の復興を目指すのとは違っている、自分だけが良ければいい、補償金で各自が自分でいいと思うことを実行すればいいとなると故郷には帰らないとなり故郷はもう荒廃して復興しないだろう。
ここにも利己的な自分だけがよければいいということが復興させないのである。
だから不思議なのは戦争を考えるとその善し悪しは別にして国という全体のために死んだ、犠牲になったということが今になると考えられないともなる
ともかく全体のために国の存亡をかけて300万人も死んだからである。


今なら故郷であれ何であれそうした全体のために死ぬとか犠牲になる気持がないからである。
自分だけが助かればいい、国でも何か困難があれば外国に脱出すればいい、そのために金を外国にあづけておくとかなっているからだ。
もう故郷というと狭い世界だけとそこにも全体のためにという思考がない
ただ自分だけが良ければ助かればいいとかないのである。
そういう社会が資本主義だからそれを否定しては生きられないというのも現実である。
でもそういう利己主義的資本主義がいづれ恐慌とかなり崩壊する
そういう兆候も世界的景気後退とかで出はじめている
つまり何かそういう大きな転換期にきている、だからこういうとき巨大な津波が襲った
それは貞観津波や慶長津波の時代とにているのである。末世だということである。


世界がそのために根本的に変わらねばならなくる、それほどのことが今回の津波や原発事故には空想ではなく現実問題としてこの辺で現れたのである。
こういう時は自分のことだけを考えて全体がだめになるとき自分だけが助かることはない国が滅亡してゆくようになればシリアのように難民化したりみんな助からない
自分だけが助かろうとしても避難先から追い出されたりもう逃げ場もない
そうなら国のために戦って死のおうとかなるかもしれない、それは戦争の時そうなったので経験ずみである。
日本はそういう危機のさい協力一致する文化がある、それが島国の歴史の強みでもある
ただ今回はどうなるかわからない、そうした心すらなく利己主義化しているから日本自体がたちまち崩壊してしまうかもしれない
ともかく時代の転換期にこの巨大な災害の津波に特に東北が襲われた
それも自分の住んでいる所が襲われたということはやはり何か意味あることだったのか?
それが自分に課せられたテーマともなったからである。

タグ:津波の死者
posted by 老鶯 at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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