元号の意味するもの
(グローバル化して時代にそぐわなくなった)
7割近くを占める西暦派が挙げた理由は「便利」がもっとも多かった。年数計算の起点がひとつなので,過去の出来事と現在との時間距離が簡単に分かる。創立 ?! 周年,祖父母の年齢,
天平
宮城県遠田郡涌谷
文禄
慶長
元禄ー相馬市新田
元禄
天保
天平 ( 729-749)
- 雲はめぐり、雨はあまねく潤して、天下が平和に治まる。
大同 (806-810)- 君が事をなさんと決意し、すべてが賛同すれば、もとより事をなして吉。君ご自身は、心安らかに、身体すこやかに、子孫にまで吉は及ぶ。
貞観 (859-877)- 天地の道は節義を変えずに守り通すただしさによってしめしている。
慶長(1596-1615)
元禄 (1688-1704)
天明 (1781-1789)- 天下に安寧をもたらした帝王が取り次がんとして残された、天の明らかなる命の兆しを見る。また、天の明らかなる命を受けて、王者として天下の万民を有する。
天保(1830-1844)
明治(1868-1912)
大正(1912-1926)
時代をみるとき日本では元号でみる、この元号が意外と重要である。その元号から時代をイメージするからである。西暦の数字だとイメージしにくいことがある。
例えば津波があった年は今回の津波で重要だったことがわかった。そして大きな津波があったのは貞観津波でありこれは記録にも残されて多賀城での被害が記されている
そして最近ボーリング調査した結果貞観津波が来た地点の砂が掘り出されている。
それは相馬市でもかなり奥まで貞観津波の砂が今回の津波が来る何年か前に発見されていた。
そのことを自分は時事問題に書いていた。でもこのことに注目する人はほとんどなかったろう。
貞観津波というとあまりにも古いからそうなる。その貞観津波は古代に蝦夷征服の時でありそれ故京都と陸奥が結びついたことで記録されたのである。
天平大同貞観は陸奥と中央の政権が結びついた時代であり記憶されるからなじみがある。
天平産金遺跡は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社付近で、「天平」の文字瓦が出土している。
ここから黄金が産出して奈良の大仏に使用されたのである。
すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く
このとき陸奥は奈良時代、平安時代(京都)に知られる時代だった。ここから陸奥の歴史が日本史として記された。その前に蝦夷の歴史があったがそれは消滅したのである。
貞観時代の後は鎌倉時代とかになっているが元号でなじみがないし興味がない
その後元号で興味が出たのは慶長時代である。
この時代は慶長津波で有名になったがこの時は戦国時代であり江戸時代の支配が確立する前であり重要な時代だった。
でも今回の津波で大津波が襲った時代は一つの大きな時代の区切りとして意識された。
津波の前と後では別な時代のように意識されたのである。
特に東北の沿岸地帯ではそうなった。
ただグローバル化した結果元号はなじみがなくなった。何か違和感を感じる人が多くなった。
でも江戸時代までは元号が時代をみるには重要だった。自分は必ず古い碑を見るとき元号をみる、その元号によって時代がわかるからである。
この辺では東北では江戸時代の前の元号があるのはまれである。
慶長時代の墓が南相馬市鹿島区の屋形にある。はっきりと時代が記されている。
田中城主だった人の墓である。これが一番古い墓に思える。
それから元禄というと何をイメージするかというと日本が戦国時代が終わり社会が安定して繁栄した時代をイメージする、それで不思議だったのは葛尾村の落合に明暦と元禄と記された碑があった。
あそこになぜこんな古い碑があったのか謎である。葛尾村でも古い歴史をもっていると感心したのである。
それから新地には文禄の碑があった。新地は伊達領だから宮城県に伊達藩には相馬藩より古い碑があるから納得がいく。文禄と記されたのは検地をした記念だった。
そして元禄というと華やかな時代でありその時芭蕉が「奥の細道」を旅した時だったというのも不思議である。
奥の細道は中通りであったがすでに葛尾村に元禄の碑があるように元禄時代には地方でも相当に開墾されて栄えたことは確かである。
相馬市からも近い松川浦に面した新田にも元禄の碑があった。
ここに元禄の碑があったのもここが開拓された開かれたからである。でも元禄時代というどこの辺では古いから意外ということもある。
それでも元禄時代は地方でもそれだけ開墾開拓されて発展した時期なのである。
関西辺りでは元禄と記された墓が最近墓を継ぐ人がいなと捨てられていたのは驚いた。
この辺だったら文化財になっているからである。
元禄の後は文明が記憶に残る。これは全国的飢饉の時代であり相馬藩でも人口が三分の一に減ったことで有名でありそのあと越中などから移民がきて復興したのである。
だから相馬藩では天明という時代は重要である。
その天明が自分のすぐ近くの子供のとき遊んだ神社にあったことも驚いた。
すでにこの辺は天明時代から人が住み生活がありつづいていたのである。
自分の家は明治に父が移り住んだのでありそこまでの歴史はない、一般的に町内では他から移り住んだ人が多いが同級生但野氏は南北朝時代からつづいていたのには驚いた。
町内でもそれだけの歴史がある家があったことに驚いた。
それから天保という碑が自分の墓地にあった、それはそこが寺子屋だったらしからである天保というとすでに明治時代につづいている。天保に生れた人が30年くらいすぎて明治になっているからである。
だからここで錯覚していたのは天保は明治を基点としてふりかえると遠い時代ではないのである。時代というのは常に錯覚している
でも時代が重要なのは例えば明治以降ふりかえると明治生れと大正生れとかその後の昭和生れでも時代を明確に分ける
両親から祖父母の時代でありその前後を間違えることはないし身近なのである。
自分の父親は明治生れだから明治の人であり母親は大正生れである。
それを逆にふりかえる人はいない、ところが江戸時代でも時代をさかのぼるといつの時代なのか古い時代と新しい時代を錯覚することがある
どういうふうに時代を認識するかは百年単位になるくらいならいいが千年単位になると本当にむずかしい。
津波など大きな自然災害など何かその時代に歴史的事件があればそれでもって意識する。そういうものがないと時代は意識されにくいのである。
そして現代では元号は時代にそぐわなくなった。そもそも明治になっんたとき元号には無理が生じていた。武士の世でも天皇の世でもなくなった、平民の民主主義の世になったからである。元号は天皇支配の象徴でもあったからである。
もちろんそれが日本の伝統だからそれなりの意味が歴史的にあった。
でも今はもうこれだけグローバル化社会に生きているとき日常生活でも不便になった。
常に自分の生年月日を書類に書くとき昭和という元号と西暦がダブってこんがらがるからでしなる。
元号が何か時代にそぐわなくなったというとき「降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男」というとき明治という時代は明確に一時代を築いた時代であり誰でもイメージしやすい、そしてその次の大正時代も明治のあとの何か革命の時代が終わった頽廃的なものを感じる
それより大正生れというとき今も90才以上でまだ親が生きている、だからまだ身近なのである。
自分の母親は去年、百歳で死んだのもそうである。母の一生は働きづめの一生だった。
若いときは紡績工場で原紡で糸取りでありあとは東京で女中をしていた
その頃の働き場所はそういうところだった。母が言うには現金収入になったから良かったとも言っていた。つまりその頃女性が現金収入を得る働き場ができたということでそう言っていたのである。
それから関東大地震を子供のとき感じて知っていた。そういう時代の人だった。
大正といってもまだ生きている人が相当いるし百歳まで生きる人も増えているから大正は過去のものではない、大正時代までは何か元号が活きていたと思う
昭和になると昭和天皇でありそれは戦前は二十年つづき戦後も長くつづいた。
でも昭和は明らかに戦前と戦後では連続性がないのである。
時代は戦前と戦後では全く変わってしまったからである。
だから年号はこの辺からそぐわなくなった。平成とかなってもこれは何なのだとみんなが思うようになった。
西暦の方がグローバル化社会ではあっている。歴史はもはや日本だけのものではない現実の生活で世界史の中でどこでも語られるようになっているからだ。
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