2016年02月25日

南相馬市鹿島区八沢浦港部落の解散式 (その歴史をたどる)


南相馬市鹿島区八沢浦港部落の解散式

(その歴史をたどる)

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あそこに40軒くい家があり140人が住んでいた、そのうち三分の一が犠牲になった。その数は多い。逃げる場所も近くの海に面した高台だったから犠牲者が増えた。、家はもっと少ないと思っていた。10軒とかあったのかなと思っていた。
あそこは前も防潮堤を越えた波で水浸しになった。あの時移住していれば津波の被害からまねがれた。
海岸は常に浸水の危険にさらされている。それで磯部の鬼越館も浸水であそこに移ったのである。そして津波はその近くまで来ていたことに驚いた。
ある一人は息子を27才で亡くしていた。

27才の息子をなくし父悲し港部落は消えにけるかな

死んだ人は老人が多いが若い人が死ぬとあわれだとなる

そもそもなぜ海岸沿いに家が密集して建ったのかという疑問である。
それは港の機能があるから生活のために魚をとるとかのために漁村になり家が密集したと思うが普通である。三陸とかなると漁業のために危険な海岸地帯に大きな津波の被害の後にも住んだ。
それは漁業で生計が成り立っていたからである。
磯部とか松川浦とか烏崎とか請戸とかは漁業で生計をたてていたし鉄の素材を岩手県の宮古からも船で仕入れていたから港の機能があった。
八沢浦も結構港としては大きな役割を果たしていたのである。
小高も入江が深く入り込んでいて大きな港の機能があったことは学問的に考証されている津波が駅前まで来たことでもわかるように海が深く入り込んでいたから港として利用された。
それは鎌倉時代から江戸時代まであった。ただ小高の港の機能は消滅したのである。
それが慶長津波と関係していたのかということを前に書いた。

八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く 

倉庫海岸にあり、、、郷の税米を納め江戸に運船す(下海老村)

下海老村には江戸時代後半に税として納めた米を江戸まで船で運んでいた。
この一行を見落としていたがこれは重要な記録だった。
八沢浦はその前に七荷運舟とあるごとく港の機能があった


しかし八沢浦の港とあってもそもそも海だったのだからそこが港ではなかった。
江戸時代にはそこに人は住んでいなかった。八沢浦が干拓されて人が住むようになった。
岐阜県池辺村の揖斐川の出崎式排水機を使ったの排水を思いだし八沢浦の干拓をはじめたこの地方では木曽川、揖斐川、長良川の火口に三角州が形成されて川底が上がり洪水に見舞われやすい地形となっていた。
それで輪の中に住居や田畑を作り水害に悩まされながら生活していた。
ここはこれだけ大きな川が三つも交わるのだから広い所である。

港部落は江戸時代までは海だから人は住んでいない、でも港という地名は江戸時代に港の機能がすでにあったから港という地名はあったのか。地名は明治以降についたりしないからである。みんな江戸時代の前であり古いからである。
でも釜舟戸とか舟戸松原とか地名としてあるから港は新しい地名なのか?
釜とつくのが多いのは塩をとっていたためである。
八沢浦が干拓されたとき明治以降に人が住むようになった場所なのである。
それと明治以降に職を失った武士が開拓に入った、それで妙見が祀られている。
でもすぐ近くの山際には熊野神社が祀られている、この熊野神社はいつ祀られたのか?
そこは八沢浦が海だったときもあったのだろうか?
それは妙見の祠より古いからである。あの辺も海になっていたとすると住めたのかともなる


ともかく磯部でも元は砂州だったところでありそこに家が密集した。そこには港の機能が確かにあった。
でも一方で磯部でも開拓されたのであり米をとることで人口が増えた。
そして家は海岸沿いに密集したのである。開拓されて米がとれるようになって人口が増えて家が増えた。その家は開拓された田んぼの中には建てられず海岸沿いに建てられたのである。
それは前にも書いたように土地がないために条件の悪い海岸沿いに家が密集した。
漁業するだけではない、開拓された結果として人口が増えて海岸沿いに家が密集したのである。それが三陸とこの辺の事情は違っていたのである。
特に八沢浦の港部落は漁業とは関係していない、開拓して米がとれることで人家が増えたのである。
ただ八沢浦では鰻がとれたということがありそれを川俣まで天秤棒で担いで売りに行ったという話を屋形の人から聞いた。そんなことがあるのかと疑ったが八沢浦には鰻が結構とれたのだろう。だからそれを川俣まで売りに行った。川俣は織物の町で繁栄していたのでそこまで売りに行った。
そういうことはあっても開拓してから米がとれるようになって海岸沿いに人家が増えた。それが津波の被害を大きくしたことに結果的になった。


日本は国土が狭い、江戸時代からそれで開拓,開墾が延々とつづいていた。米をとるためにそうなった。それは戦後もつづいていたのである。
何をして生活をするかとなると米を作ることでありそのために海側でも山の中でも田んぼが作られてきた。遂には戦争のときは満州で米作りしたのが日本人である。
そこは寒冷地だから稲作に適していないのにしていた。
そして現代になると米あまりになり減反になってきた。
米が余るなど考えられないことだった。
だから自分が八沢浦で注目していたのがそこが干拓されて水田になったことではない、そこが入江だったらどれだけ美しかったろうとイメージしていたのである。
それがそこが本当に一時入江になったときほど驚いたことはなかった。
浦波が朝日に光り打ち寄せていた、それは信じられない奇跡のように思えたのである。
その時ここでは人が死んだのにお前は喜んでいるのかととがめられた。
そこで港部落でも40人以上死んだのだからそれは当然だとなる
でも自分は正直それよりそこが本当に入江になったときほど驚いたことはなかったのである。
ということは現代を繁栄して田んぼというものを米余りや減反で重要なものと見ていなかったからかもしれない、それより風光明媚な古歌にも残っている八沢浦が入江となった再現したことに驚いたのである。







タグ:八沢浦港
posted by 天華 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処
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