相馬市南相馬市(原町区)などの街作りをどうする?
(歴史的にふりかえる街作り)
自転車で行くと相馬市はイオンから街中に入る
街中と一体化している
でも電車だと駅前を通る
電車に乗らないからまずイオンに行く
それよりイオンが中心でありそこで用をたすのである
そのために相馬市のイオンでは8時から営業しているのは勤め人が利用するからだろう。
原町は中心街は道の駅のある六号線である。
そこからイオンまでは自転車では遠いのである。
だからイオンは陸の孤島のように自転車では感じる
だから駅前に図書館など作ったのは街作りでは失敗だった
駅前にイオンのようなスーバーを作れば人の流れができたのである
図書館は閑静な場所があっていた
駅前の中心が図書館というのはそぐわないのである。
実際に駅前通りというのが何か六号線の中心街からイオンに行くとき
ぬけおちているのである、シャッター通りにもなっている
これは前の市長の失敗だった、ただ図書館を駅前に作っているのは郡山でもそうであるから何か駅前に人の流れを作るためにそうしたことは共通している
ただ図書館などは街から離れていて閑静な場所が本来にあっているものだろう。
そこに回遊式の庭があるとか森の中にあるとかなると何か雰囲気的にいい
そんなところで読書していれば何かアイデアが生れる
駅前とかはやはり買い物とかが主になるのがふさわしい
結局車社会になり電車を利用しないということが街の通りを衰退させたのである。
いづれにしろ駅前通りでも旧来の街が衰退したのはシャッター通りになったのは車社会になったためである。
ただそれだけではない、街は常に興亡をくりかえしている、もともとは陸前浜街道沿いが宿場町として栄えたりしていた。
それは江戸時代のつづきでそうなっていた。それから駅前通りが栄えたのは電車が足となったとき駅を中心の街作りになったからである。
そして車社会になったら当然車社会にふさわしい街になる
江戸時代辺りでも地名を見ると必ず古町というのがある
それも小さな狭い町でも古町がある、古町と新町はそんなに離れていないのである。
人間社会は常に変化しているからそうなる
自分の家で店をしていたとき繁盛したのは前に小さな店が繁盛していたのは徒歩の時代だったからその利便性は道の角のような場所だったのである。
買い物する人はあまり遠くからは来ないからである。
近隣の人の利便性があり繁盛していた。それで角屋という屋号はそういう場所が繁盛したからである。
それがスーパーができたとき衰退して店もなくなった。
街作りは歴史的なものと新しい時代に対応するものが必要になる
相馬市は城下町でありそれで入母屋式の屋根を作り景観を統一しているのである。
それは評価できるが新しい街としての活気に欠けている、それはどこでも共通した問題である。
外国でも古町は歴史地区であり観光の中心になる。その外郭に現代の街が広がっている
それがはっきり分かれているが日本だと混在していて良くわからない面がある
相馬市は原町と違うのは高いビルがない、ただそれだけで景観が保たれている
高いビルは景観をそこなうのである。それで京都の町屋の前に高いビルが作れたときそれがのしかかるようになり景観は失われた。
江戸八百屋町とあっても二階くらいであり長屋にしても一階でありそういう場所は空も広いし空間的に景観をそこなわない、それで浮世絵では常に富士山が描かれている
一番高い建物は城であり天守閣だったのである。
日本の場合はともかく計画的に都市をつくるのが苦手である。雑然としてごちゃごちゃになる、路地も多いし計画的に立案して都市を作れない、原町はイオンがあってもそれが陸の孤島のように離れている、自転車だと六号線から入ってゆくから余計に遠くなるのである。
原町の街作りは失敗したのだろう。駅前にこだわったこともそうでありイオンが離れすぎていることもそうである。
相馬市の方がこじんまりしてまとまっているのである。
商業地区とか文教地区とか歴史地区とは分かれるべきだったろう。
歴史地区に文教地区があるのが望ましいとはなる
それだけの歴史遺産があればそうなる
もともと日本の都市は戦国時代の延長として防衛のために作られていた。
城の回りに寺が多いのは寺が防衛のために配置されていた。
城と寺は一体であり寺と一つの行政機関でもあった。
寺町とあるときそれは防衛のためのものだった。
歴史的に街作りをふりかえれば東西で共通したものがある。
寺町はヨーロッパになると修道院になる、教会も防衛のためにあったともなる
街作りはまず歴史地区、文教地区、商業地区、医療福祉地区、農耕地区、純粋自然地区、、、とかに分かれる
歴史地区に文教地区も入るのにふさわしい、商業地区には娯楽地区が入り医療福祉地区には墓地なども入る、墓地というのも街の中にあるのがいい、何かそぐわないようでも自分は小さな街内に住んで毎日自分の墓の前を通るから死者を意識する、最近二人家族が死んだから余計にそうなった。毎日通るから手を合わせるとなる
離れていればこうはならない、一年に二三回墓参りに行くだけだとなる
老人ホームに墓まで用意しているのが在り安心だというとき何かそういう心境もわかる。死者をかけはなれたものではなく死者と一緒に住むというのも街だとなる
商業地区には娯楽施設などがあっている。農耕地区があり純粋自然地区がある純粋自然地区は聖なる場所でもある、田舎だと身近にそういう場所が近接している
大都会になると農耕地区とか純粋自然地区は消失しているから街作りとしては大規模になるがかたよるのである。
田舎だと純粋自然地区と農耕地区のしめる割合が土地にして大きい、そこに安らぎあり神道のようなものが生れた、ただご利益宗教になったとき俗化したのである。
まず純粋自然地区がないところには住みたくない、安らぎがないのである。
森につつまれているような飯館村などがあると心に安らぎが生れる
広い地域でも歴史地区なら相馬藩内では城があった相馬市であり原町は商業地区として明治以降発展した。全国でも東京は商業地区であり関西は歴史地区である。
世界的にそうである。中国では上海が商業地区であり北京は歴史政治地区になる。
それで上海語と北京語が違っているというとき関西弁と標準語の相違とにている
いづれにしろ原町の街作りは駅前に図書館を作ったことはそぐわないものだったかもしれない、医療機関も多いが電車を利用すれば便利だがどうしても車を利用することで駅前はすたれる、何か自転車だと街全体を回れるからいいが電車で来て徒歩だと手間が時間がかかりすぎる時代になったのである。
もし電車が足だったら駅前中心の街作りができたのである。
日本はともかくこうして全体をみわたし計画的に街作りすることが苦手なのである。
だから何か雑然とばらばらになっているのである。
そしてこの辺では津波原発事故で新しい街作りを要求されている、これだけ変化すると新しい街をどう作るのかとなると今までの発想ではできない
大きな発想の転換が必要になっているのだ。
少子高齢化というのも街作りに大きく影響する、町自体が消滅するとか農耕できないとかなると新しい街作りをどうするかとなるとイメージできないのである。
ただこれだけ変化すれば新しい発想をして新しい街作りをやりやすいとはなる、津波で町が消滅したような場所もそうなのである。
街自体がなにもなくなったらそこに新しいものは作りやすいのである。
でもそれはどういう街になるのかそれともう若い人も流出しているから街自体の再建ができないとかなって深刻なのである。
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