2016年02月14日

権利、責任、義務は一体である。 (原発事故で問われた様々な責任)


権利、責任、義務は一体である。

(原発事故で問われた様々な責任)


戦後の民主主義は権利とか平等とかを教えた。だから権利意識が強いのが戦後生れであるそれで団塊の世代は権利ばかりを主張するから嫌われている。
権利と責任き義務は一体化していた。権利を主張するのはいいが同時に権利には責任がともない義務が生じる、これはそれぞれに分離してありえないものだった。


そのことが具体的に現れたのが原発事故にあった浜通りだった。
例えば漁業権というの大きな権利だった。でもそこに責任と義務も一体化してあった。
漁業権とかは海を守る権利であり海に対して責任を課せられていたのである。
ただ自分たちが魚を獲る権利があり他の人は何も言うなということではなかった。
そこには大きな責任が課せられていたのである。
それが原発事故以後問われたのである。

あなたたちは海から魚をとる権利があった。それはいいとしてまた海を守る責任も同時に課せられていたのである。
この海は俺たちの海だ、他のものは黙っていれ、俺たちの自由にできる海だとなったとしたら当然そこには責任と義務が生じる
なぜ原発に東電に政府に漁業権を売り渡したのかとなる
そして事故後も手厚い補償金をもらっている、漁業権は強い権利でありもし反対されると原発は建てられなかったのである。
権利を主張するのはいいけど同時に重い責任と義務が課せられていたのである。


別にそのことはこの辺ではあらゆる所でそうなった。政府や東電の責任も重かった。
なぜ「安全神話」が作られたのか?それはいいとしてそれを言うなら責任をもって言うべきだった。それほど言うならもし事故が起きないというなら事故が起きたのだからその責任は誰がとるのかとなる。それだけの覚悟があって言っていたのかとなる
それはあらゆる方面で指摘されたことである。
科学者は御用学者だとか言われたがそれも責任を問われた。
科学者が本当に原発の危険性を知らせなかった。それはなぜか?
科学者が責任をもって安全だ言うなら責任を果せとなる。
責任の重さを感じていなかったのである。

責任というときあらゆる方面で問われた。マスコミでも公正な報道をしているかというと報道する権利は与えられてもその責任は果たしていなかった。
東電から宣伝費が流れてその危険性を指摘することを怠った。
象徴的なことは朝日新聞まで東電に中国で接待されていたとき事故が起きたのも因縁だった。東電から金が流れてそれでマスコミは接待されていたのである。
そうなれば東電の原発の危険性を指摘したり報道できないのである。
利害関係があると公正な報道はできない、マスコミはテレビ局でも六局とかで独占されていた。それは大きな権利として国から与えられていたのである。
でも宣伝費で報道しているから宣伝費をもらえる会社は批判できないのである。
ここでも権利が与えられても報道の責任が問われたのである。


また地元の人が責任がないのかというとあった。自分たちの町をどうするかというときすでに個々人に権利も与えられているが責任も課せられている。
権利を主張するのはいいが責任も課せられているのだ。
市町村でもその市民であれ町民であれ村民であれ自分たちの住む町や村を守るのはそこに住んでいる住民である。住民の一人一人なのでありそれが民主主義だったのである
権利を主張できるがそれにはまた責任が課せられていたのである。
責任というとき大きく言えば国家への責任がある。日本国家に生れたというとき日本国家に生きる権利が与えられと同時に責任も課せられている
例えば戦争になったときそれがどうであれ決められ以上日本国家のために死んでも責任を果すことを課せられたのである。

個々人の家でも生れたときすでに責任を課せられていたことが今になってわかった。
自分の親も死に自分だけが今や家に残った。そして最後に全部の家の責任が自分に課せられていたことがわかった。
自分は家では良くしてもらったけど最後は家の重い責任を課せられた。
長男とか長女とかはそうなりやすい、天皇家に生れたらいいとか思うけどその責任も重すぎる天皇家などに生れたくないと思う
生れた家によってみんな責任を課せられている。それが運命であり宿命であり逃れられないとなる。

変なのだけど人間は神からこの地を与えられた、だから地球に全生物に責任が課せられているともなる、人間のいいようにしていいと神が言ったとき、全生物に対して責任を課せられていたのである。動物を食べていいが動物に対して責任をもてともなる
動物も神から与えられた命だから貴重なものだから粗末に扱うなとかなる
大地が与えられて実りがあるとしたら大地に責任をもてとかまでなる
漁民とか農民とかはそうして海に大地に森に山に環境に責任をもてとまでなる
海を汚す原発は環境を汚すから作るなとなる。
ただ原発となると世界にあるからそもそもある国の責任ではなく世界的な問題としての責任が課せられている。だから環境となると国際会議で守らねばならなくなる
日本で原発事故が起きれば海が汚染されるから世界まで影響するしそれは国境を越えて影響するからそうなる
人間はそもそも原発とか核をもつべきではないともなる


ともかく人間とは本当に責任を果せるなら何もしてもいいのかもしれない、千人殺しても核兵器をもっても原発でも科学者が責任をもって作らすならいい、ではもしその責任を果せないならどうなるのか?
今回のような原発事故の責任はどうとるのかとなる、その責任をどう果すのか?
除染しても除染しても放射能は消えない、プルトニウムの毒が二万年消えない、その責任はどうとるのかとなる、それはあらゆる方面で原発を作らせた住民にも問われた。
自分たちは責任がないと言ってもそれは別に30キロ圏外だろうが福島県全部でも責任が課せられた。福島県の責任でもあり日本国の責任でもあった。
福島県のことばかり責任が問われるが国でしたことであり国で政策としてしたこととなるとそれは国民が決めたこととなり国民に責任がある。
それは戦争ともにている、国民も責任が課せられて結局300万人も犠牲として責任として死んだのである。だから責任とは恐るべきもの信じられないほど重いのである。
もしそういう責任が課せられたとして戦争するとなるとみんなしなかったろう。
とてもその責任をになえない、怖くてできないとなっていたのではないか?
天皇だってそんな責任を課せられていたとしたら戦争などしなかったろう。
それは原発事故ともにていたのである。

そして日本だけではなくアメリカにも原発事故では責任があった。
マーク1の古い原子炉とか工事するとき電源を地下に置かせたのはアメリカである
それはアメリカでは竜巻があるから地下に置かせた、津波のことは考慮されていなかったのである。だからアメリカにも相当な責任があった。
でもなんら責任は果たしていないのである。
それは東電にしても会長から社長からみんな外国で暮らしていて責任を果たしていない
これだけの事故を起こしても何ら責任を果たしていない
この責任の重さからするとそんなことがあっていいのかとなる、そして何ら検察でも政府でも責任を問わないということもおかしいのである。


つまりもし責任の重さを自覚して覚悟してやるならいい、その自覚と覚悟がないから軽い気持でやるからこういう悲惨な事態になった。社長になりたいという人は多い
でもバス事故を起こして死者を出した会社の社長が謝っていたげとずいぶん旅行会社も重い責任が問われるのだとみた。
金持ちになりたいという人は多い、でも10億円もった人は10億円の責任が課せられる、それを有効に使えないものは責任が問われる
それができるのかというと簡単にはできない、それで50億も稼いだという野球選手が覚醒剤にはまり身を滅ぼした。
湯水のように金を使えてもそれで身をつぶしたとなるのだ。
でも別にそういう重い責任を自覚してはいない、もし自覚していたら事故を起きないように細心の注意を払うだろう、それよりコストだとなり競争に勝つために安くするということで事故になった。
それは原発事故の社長がコストカッターとしてのし上がったということでわかる
コストと安全は対立するものだからそうなる、安全に金をかけるともうからないからそうなる、でも一旦事故が起きたら全部失うということか事故の恐ろしさである。
死んだ命はもどらないということもあまりにも重い責任をだったとなる
事故というのは本当に怖い、例えば石油ストーブでも何かの間違いで火事になるとすべてを失う、二階にいて消し忘れたり外出するとも消し忘れたりすると火事が怖いとなる
それは一回の事故でもすべてを失うという恐怖なのである。
いづれにしろ自分でもそうだが重い責任がみんな課せられていることを自覚しなかったのである。

タグ:権利と責任
posted by 老鶯 at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/174051959
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック