生はなべてあわれなるものと知るべし
彼女は強い人だった
人を押しのけるような勝気な強い人だった
人にあわれまれるような人ではなかった
しかし今はなんとか洗い物掃除をしている
何するにもおぼつかない
それでもなんとか自らできることをする
冬の日がさして静かな日
日常の営みがなおつづいている
日常の当たり前のことができること
それが今や何か尊いことのように思える
彼女は今は人にあわれまれるものとなった
人の助けがなければ生きられない人になった
それがふがいなく不満を爆発することがある
でもその弱さを認めるほかないだろう
認知症の人はそこが素直になれない
人にあわれまれ頼ることを良しとしない
人は誰しも老いれば弱くなるし衰える
強い人もそれで弱くなりあわれむものとなる
強い人もそうして人間とは弱いはかないものとしる
人間は誰しもあわれな存在なのだ
強がってもどうにもならい
老いと病気には勝てない
だから弱さを認め素直にあわれまれ助けられるのがいい
強きときあなたは人を助けた
今は弱くなったのだから助けられるがよい
生けるものはなべてあわれなるものと知るべし
認知症の人は身体障害者と違い、自らの障害、弱さを自覚しない、目が見えない、耳が聞こえない、足が悪いとか心が正常な人は人に頼らねば生きて行けないことを知っているから素直に人の援助を受ける。認知症の人は人の助けを素直に受けいれることができなくなる。ヘルパ−でも誰でもいいとはならないし極限られた親しい人しか受け付けなくなる。何か説得しても怒っても言うことをきかない、強情になる。もともと強情な人だったからそうなったのか?そこがどうにもならないのだ。懸命に自らのことをなおやろうとすることはいいことなのだが忘れるということから盗ったとか妄想が起きてきたり物忘れが精神障害になるから普通の身体障害者とは違い扱いにくいとなる。
障害者と接するということはどういうことかこの世には弱者が存在して人の助けがなければ生きていけない人がいることを知ることなのだ。そして老いれば病気になれば誰も弱者になる。だから弱者をあわれみ助けるということを学ばせることが必要なことがわかった。高齢化社会は介護の時代となりそういうこと家族でも自らも弱者となることを多数の人が経験する時代になったのだ。弱者は切り捨てるべきだという社会は一面ナチスのような危険な社会だった。大量に弱者が経済的負担として健常者にのしかかってくることは問題にしても個々の場合はやはり弱者に優しい社会は住みよい社会なのである。
なぜなら弱者を助けるということは競争するのではなく助け合うという徳が育まれる。人をおしのけてまで金をもうけ高い地位につこうとするのとは違いへりくだり謙虚にならねばできないことなのだ。介護福祉士となるとそうした弱者に対してかなりへりくだり具体的な行為が即要求されるから精神的にはかなりきつい仕事だからやめていく若者が多いこともわかった。他の仕事とは根本的に違っている。人を直接いたわるとかなぐさめるとか補佐するというのは競争社会ではないからだ。それが仕事にできるということは一面何か人間として競争社会にはない別なものを体験し身につけることになる。これは家族の介護でも個々に経験しているから家族の介護からヘルパ−になる人が結構いるのもそのためなのだ。
晩菊や老をいたわり今日も暮る
もののあわれについて(老いれば人はみんな敗者になる
http://musubu.sblo.jp/article/1257380.html
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