2016年01月15日

海老千軒と津波に家を流された人が言う (海老の発掘された跡は800年前のもの?)


海老千軒と津波に家を流された人が言う

(海老の発掘された跡は800年前のもの?)

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字山地やまちの稲荷神社は、楢崎千軒なの鎮守神であったが山津波で一夜にして流され、現在の阿弥陀堂の地に移した。しかし再び水害にあい現在地に移建されたという。楢崎千軒の消滅について、旅の行者の制止を無視して大道おおみち沢で毒もみ漁を決行したからとの伝承がある。


琵琶湖岸を南北に走る賤しずヶ岳たけ山系の西野山丘陵に立地。西野山西麓湖岸阿曾津あそづに、往古阿曾津千軒とよばれた大集落があったが地震によって一村全滅し、逃れた村人は当村、松尾まつお(松野)・熊野くまの・東柳野ひがしやないの・柳野中やないのなか・西柳野・磯野いそのの七ヵ村(七野)に分住。


広島県福山市の市街西方を流れる芦田あしだ川。草戸千軒町くさどせんげんちょう遺跡は、その芦田川河口付近にあります。「草戸千軒」の名は江戸時代中期に福山藩士が著した地誌「備陽六郡志」に「草戸千軒と云町有りける」と記されていたことに由来します。同書によれば、寛文13年(1673)の洪水で中州(中島)にあった草戸千軒は町ごと流失、その後、中州に民家が再建されなかったため、中洲は廃墟になったといいます。


福島県会津若松市の「千軒道せんげんみち」です。「日本歴史地名大系」は次のように記します。

滝沢町妙法寺前たきざわまちみようほうじまえ通より西の方紫雲寺前しうんじまえ通に至る、長さ一町五六間・幅二間。昔はこの辺りに家数一千軒があったのでこの名がついたというが、化政期には寺院のみで他の居宅はないという(新編会津風土記)。


過ぎし日の繁栄を物語る「千軒」地名

昔、八幡の町は「上千軒、下千軒」と呼ばれ、大いに繁昌していたが、そのころの事である。1軒の酒屋があり、こさじという下女がいた。この酒屋へ顔が赤く全身に毛が生えた猩々(しょうじょう)が来て、酒を飲ませよと仕草をし、酒を出すと飲みほし、盃に血を残して立ち去った。猩々の血は高価なものであった(または、残した血が銭になった)。強欲な酒屋の主は猩々を殺して血を採り大金を得ようとたくらみをした。それを知ったこさじは、猩々を憐み、次に訪れたときその事を告げた。猩々はそれでも酒が欲しい、もし殺されたらその3日も経たないうちに大津波がおしよせるから、そのときは末の松山に登って難を避けよという。猩々が酒屋を訪れると、主夫婦は大酒をすすめ、酔いつぶれた猩々を殺し、全身の血を抜き採り、屍を町の東にある池の中に投げ棄てた。その翌日、空は黒雲に覆われてただならぬ様子となったので、こさじは猩々が語ったことに従い、末の松山に登って難を避けた。この津波で繁昌していた八幡の町は、家も人もすべて流されてしまった。猩々の屍を棄てた池はのち「猩々ヶ池」と呼ばれるようになった。

多賀城ー末の松山ー伝説



海老村の人で津波に家を流された人とあった。ちょうど海に面した角の家だった。
その人は船に乗って魚をとっていた。烏崎の港で船に乗っていた。
右田とか海老村でも烏崎の港で船に乗っていた人がいた。
海老村でもいたのである。ここは前は港であり帆掛け舟が出ていた
ここで津波の跡に発掘をしていた、その跡は広く古くからここには家が建ち栄えていたとなる
その場所は右田より高い場所にあり住むには適地だった。海老村の方が右田より古いことがわかる。
海老という地名が蝦夷(えみし)蝦夷に由来しているということを書いた
海老はエヒであり古い地名なのである。だから800年前というのも本当なのか?
文化財課に問い合わせたらまだ調査中であり3月に概略がわかるという。
海老村については自分も津波のことでいろいろ調べた。
海老村の大工が津波の後に中村城の天守閣の建築にたずさわった伝説が鹿島町誌に記されている
その伝説と本当に不思議なのである。何らか津波があったことを示唆しているような文である。これを解明すれば400年前の慶長津波のことを知る唯一の手がかりになるかと思った。
なぜなら時代が一致するからである。慶長津波のすぐあとに中村城の天守閣の造営がはじまったからである。それはなぜかとりやめになった。

その人が海老千軒だとか言うときそれもこうした遺跡があることは根拠がないととんいえない、千軒という地名は各地にあり何かしらで栄えた町が災害などで消失したためにそういう地名が残っている。
つまり津波だけではない、洪水もあるし、鉱山で栄えていた地域もあり家が繁華に建ちかつて栄えていた。それが消失したというとき今回の津波と共通しているのである。
草戸千軒は遺物が発見されているから確かである。それも最近発掘されたのである。
だからあそこの遺跡も津波の手がかりになるのかもしれないと思った。
何も津波の手がかりになるものがないから時代がわかればもしかしたら慶長時代の津波とかでやはり千軒が消失して海老も海老千軒とか言われたのかもしれないとかなる
津波で消失してまたそこに家が建つようになったのだろうか?
そういうこともありうるだろう。時代は全部の遺跡で同じではないということは時代的に継続して住んでいたのだろう。海老は高いから津波が来ないと思っていたからである。

千軒で有名なのは多賀城である。ここには明確に津波の伝説が残っているし末の松山はあまりにも有名である。
だからコサジの伝説があるけどこれは何を意味しているのだろうか?
猩々(しょうじょう)とは架空の動物のことである。
何かそれは神の使いのようなものかもしれない、その神の使いをだましたことで津波が襲った。そういう縁起を語っているのかもしれない、津波のことを明確に語っているのは珍しいのである。
自分も津波がくる半年前に犯罪にあいそのことで半年くらい激しくその人を呪った。
そしてあの津波が襲ったのであり不思議なのことだった。ただその前に原町で女子高生の殺人があった。それは津波のすぐ前だったのである。
その女子高生の死体は発見された。津波のような災害はやはり何か特別でありそれが何かと縁起が語られるたのだろう。他にもそういう人をだますとか何か悪いことをして津波がきたということは語られている
人は何かむごいをことをしたということでそれが縁起となり語られることが伝説にはある

この津波で繁昌していた八幡の町は、家も人もすべて流されてしまった。猩々の屍を棄てた池はのち「猩々ヶ池」と呼ばれるようになった。

これも何か悪いことをした罰として津波が襲ったことを生々しく語られている。
とにかく人間には明らかに罰が与えられるのである。原発事故は人間の奢りの結果であることはまちがいないからだ。
末の松山とはそれだけ津波を伝えた伝説が歌になって残っていたのである。
末の松山波こさじかも、、、というのが今回の津波で思い知らされたのである。
こさじという名前はこさじから来ていたのか?
海老村に残された天守閣造営にたづさわった大工の伝説の意味がわかれば何か大きな手がかりとなる
発掘された遺跡のことで何か津波のことでもわかったりしたら凄いと思うがなかなかむずかしいだろう。時代特定はできれば海老村の歴史をさらに掘り下げることができる

その海老村で家を流された老人はこの辺まで防災林になる、右田で木を植えた。
松は津波には弱かった、だから混生林にするといい、でも木が育つには50年とかかかるからもう見れないなと言った、子供は見れるだろうと言ったら子供はいないよ

「ここまで防災林にする」
「そうか、でも木が育つには50年はかかるからな」
「まあ、俺たちはみれないな」
「そういうことになるな」
「松原がなくなって木陰なくて夏は困る、あの松原はいい松原だった,松が太く古い松だった」
「家もなにもなくなった」
「子供はその防災林が成長したのを見れるだろう」
「子供はここにはいないよ、みんなここから出て行ったよ、帰らないよ
もう親が帰らないし子供も他の土地でなじんでしまうから」
「そうか、他の土地に移る人が増えたのはここも同じか」
「そういうことだな」

津波とか原発事故周辺では人口の流出、それも若い人の流出が最大の問題なのである。
移動が容易な時代はどうしても便利な所に移ってしまう、一旦移ると子供もそこが故郷になってしまうのである。そして親も帰らない、子供も帰らない、老人だけが取り残されるそれは原発の避難区域でもそうでありそのことが一番の打撃だったのである。




タグ:千軒
posted by 老鶯 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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